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2013年04月25日12:44

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8年前のはなし

■脱線事故から8年、犠牲者悼む=JR福知山線、慰霊式開催―兵庫・尼崎
(時事通信社 - 04月25日 06:01)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=4&from=diary&id=2407118

去年も、この日にJR福知山線脱線事故についての日記を書いた。
あの日から、もう8年になる。

今日も僕は、JR奈良線に乗って通勤した。
あの日から変わったことといえば、電車に乗る時は、一番後ろの車輌に乗るということ。
やはり、あの日マンションの一階駐車場に突っ込んだ1輌目と2輌目の車輌の惨状が脳裏に焼き付いて離れないからだ。

そして、僕の職場と住居が変わり、通勤電車がJR福知山線から奈良線に変わったことだ。

そう。

あの事故があった当時、僕は大阪の西淀川に住んでいて、JR御幣島駅から職場のあるJR立花駅まで電車通勤をしていた。

あの日も、僕は事故があった30分くらい前にJR御幣島駅からJR福知山線へと続くJR東西線を利用していた。
向かう線は、事故のあった線と逆方向だったが、僕はたまに、乗り換える尼崎駅を乗り過ごして塚口駅まで行ってしまうことがあったから、タイミングが悪ければ時間的に事故に巻き込まれていた可能性もあった。

この日記は、もしかすると鉄道関係の方も読んでいらっしゃるかもしれない。
だから、敢えて言いたいのは、当時のJRが乗り換えと言う点において神業だったということだ。

当時、JR御幣島駅からJR立花駅まで通勤するには、まずJR御幣島駅からJR東西線に乗り、尼崎駅で降りなければならない。
そして、大阪方面から来るJR神戸線に乗り換える。

勿論、JR立花駅からだと、JR神戸線に乗り尼崎駅で降りなければならない。
そして、福知山線から東西線へと繋がる電車に乗り換える。

ただ、何本かに1本は尼崎駅で乗り換えせずとも、JR神戸線やJR東西線にそのまま乗り入れる線もある。

つまり、当時はJR東西線、神戸線、福知山線がJR尼崎駅を基点として、ダイヤが入り乱れていたのだ。
それをJR西日本は、神業とも思えるスケジュールでコントロールしていた。

例えば、帰りに立花駅で、JR神戸線に乗り尼崎駅で降りなければならないとする。
すると、僕がJR尼崎駅に着くと、向かいのホームにほぼ同時くらいに福知山線から東西線へと繋がる電車が尼崎駅に入ってくる。
僕は、ドアが開くと電車待ちをせずとも、反対のホームに入ってきた電車に乗るだけで、乗り換えることができるというわけだ。
しかも、尼崎駅から階段を渡って端のホームには、JR神戸線から京都線へと繋がる新快速が入ってくる。
普通から新快速に乗り換えるのも、スムーズに乗り換えることができた。

それが当時は、僕が帰る20時くらいでも10分から15分間隔でやっていたような気がする。
当時、僕はそれを当たり前のように乗り換えていたが、よくよく考えれば、このダイヤは神業といえるくらいの分刻みの精巧なスケジュールによって成り立っていることがよくわかる。

例え、1分と言えどもダイヤが乱れると、このサーカスのような乗り換えは実現しないのだ。
きっと、当時の運転手や車掌さんは、大変なストレスとプレッシャーの中で運行をされていたことだろう。

事故が起こるまで、僕はこのダイヤを当たり前のように思っていた。
だが、このダイヤは神業であり、神業である以上、人間がコントロールするには、何処かで誰かが無理をしていたのだ。
その無理が、あの大事故の一つの原因となったように、僕は今にして思う。

当時僕は、電車が10分遅れているからと、立花駅でオッサンが怒鳴り散らして駅員さんの胸ぐらを掴んでいる光景を見たことがある。

きっと、僕だけでなく皆があの過密ダイヤをスムーズに運行できることを当たり前のように考えていたのだろう。
だとしたら、あの過密スケジュールを組み、運行させようとしたJR西日本の上層部の責任は大きいと思う。
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