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2011年03月18日17:38

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東北地方太平洋沖地震

 北上市への出張中に地震にあってから1週間が経ちました。大阪に戻ってきてからは地震の前となんら変わらない生活をしています。しいていえば非常用ガス発電所の引き合いがいくつか来ていることぐらいでしょうか。心配くださったり励ましを頂いたりした皆様へのお礼も兼ねて当時の状況をお知らせします(とりあえずベタ打ちしたので適宜編集すると思います)。皆様、本当にありがとうございました。

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 先週の金曜日はもともと北上某社での打合せのための日帰り出張でした。朝、伊丹空港から岩手花巻空港へ飛び、タクシーで花巻空港駅へ移動した後、JRで北上駅へ移動しました。そこで神奈川から来た2名(Iさん、O君)と大宮から来た、普段は大阪で仕事をしているFさんと合流し、レンタカーを借りてガストで昼食をとりました。
 13時から客先と打合せをし、14時半には客先を後にし、再び北上駅へ向かいました。もともとは15時半からの工事に立会するO君を残して(後でタクシーで北上駅まで帰るつもりだった)、3人でレンタカーに乗り、北上駅でIさん(O君の課長)を下ろして岩手花巻空港でボクとF氏がレンタカーを返す予定でしたが、打合せが予想より1時間以上早く終わったため、O君が3人を北上駅まで送ったあとにまた客先に戻ることに変更したのです。IさんがO君を見捨てるようなかんじだったので、ボクとFさんとでそのことを散々といじっていました。
 そして14時46分、携帯電話から聞いたことのない音がしたので観てみると”緊急地震速報”と出ていました。すぐに凄まじい横揺れが自動車にかかったので運転していたO君が「あ!こりゃやばいよ!」と言って車をスローダウンして道路の真ん中に停め、車から離れて電柱を避けるような位置に避難しました。電柱が大きな音をたててしなり、電線がビュンビュンと揺れ、なんかエヴァンゲリオンの1話みたいだなぁ、と思いながら観ていましたが、全く揺れが収まらなくてだんだんと気分が悪くなりました。昼飯にガストの和食な定食を食べたのですが、最後に食べたのがあれというのはあんまりやなぁと考えたりもしましたが、これで死んでしまうとは全く考えなかったです。女性が運転しているミニバンが普通の速度で我々のレンタカーを避けて走りさっていき、ほんまかいなと衝撃を受けたあたりで揺れが止まりました。だいたい10分くらいに感じましたが、実際は7分くらいだったそうです。

 車に戻り、余震におびえつつそろそろと進むと、交差点で車がぶつかりそうになっていました。よく見ると信号が消えていました。しばらく行くとコンビニがあり、電気が消えていて、停電によって信号も消えてしまったのだと理解しました。電気もなく、線路の確認も時間がかかるため、Iさんは帰れないだろうと、またいじっていました。
 北上駅に着くと、新幹線用の改札付近に旅行者が20名ほどいました。Iさんが駅員に尋ねると案の定、新幹線は運休でした。この辺りで車のラジオから聴こえてくる内容に津波の情報が増え、なんだかとんでもない自体に遭遇しているのだと理解しました。八戸で仕事をしているTさんに連絡をとると、もうすでに避難しており、身内の安全に少し安心しました。

 ボクとFさんは18時半の飛行機で帰る予定だったので、とりあえず岩手花巻空港に向かいました。空港は自家発があるので飛行機は飛ぶだろうと楽観していたのです。信号が消えた交差点ごとに車の流れが乱れ、いつもは30分程度の距離を1時間以上かけて岩手花巻空港へ辿り着くと、空港の前にたくさんの従業員の方が出ておられました。ボクらを見つけると一人が駆け寄って来て、ターミナルに亀裂が入ったので、しばらく運休、再開のめどは全くないとのこと。
 仮設のトイレで小便をし、また4名でレンタカーに乗って客先に戻ることとしました。先ほどまでいじめられていたIさん、ボクらも帰れなくなったことでがぜん陽気になり、CAを1人乗せていこうぜ!と言って手を振っていましたがガン無視でした。

 道路の混雑は続いており、客先に戻ったときは17時になっていました。客先からは職員がぞくぞくと退避しておりました。守衛から工場の安全が確認されないので誰も入れることができないと言われ、業者には山形に帰ってもらい、我々もまた北上駅に戻ることとしました。この少し前から、auが電話もメールもダメになったために電源を落としました。
 客先の近くのコンビニが、電気がないにも関わらず人でごった返していました。中に入ると、ワインの匂いがし、酒類などのガラス製品はダメージを追っているものの、非常用電源があるのかレジとその上の電灯だけで営業しておりました。商品を強奪するどころか客同士で奪い合うこともなく、ペットボトルの水や電池などは普通に買うことができましたが、残念ながらお弁当を始めご飯ものはもうありませんでした。電気がないためにカップ麺のたぐいもダメだろうということで、乾き物をチョコレートを購入、Iさんがワイン2本とビール数缶を抱えながらゑぐっちゃんもなんか選べ!言うので無事だった一ノ関の4合ビンとジャックダニエルズと鮭とばを買いました。

 18時半ごろ北上駅前に戻り、最初はその辺りでもっとも丈夫そうな大きなホテルに行き、宿泊できるか聞きましたが、地震の後に電気が無くなったために部屋の様子を確認できないため、多くの部屋は宿泊を断っているとのことでした。ロビーが大きかったので、別にここでも良いですけど?と提案すると、「窓があんな状態なので、もうすぐ零下になります」と丁重に断られました。彼の指差す方向を見ると、中庭に面すると思われる巨大な窓が割れて、ロビーの奥の方はガラスが散らばっていました。

 結局それから3軒目のビジネスホテルに泊まることができました。そこはたまたま2年前の地震の翌日に泊まっていたホテルと同じでした。電気がなく、部屋の常夜灯をIさんの部屋に持ち寄り、酒盛りを始めました。まだまだ余震は続いていたし、部屋の暖房も電気がないために役に立たないので、酒で身体を暖めて寝てしまおうという作戦です。また、酒盛りをしながら、関東地方でホテルが見つからずにさまよっている仲間を、他の仲間が車で拾いにいくよう差配したり、溶接補修について相談を受けたりとしながら、みるみる酒瓶が空になっていきました。この時点ではお湯は出ないものの水道は出ていました。

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 土曜日の朝、起きてみると水道が出なくなっていました。幸い、コンビニで買った水があったので歯を磨いたり用を足したりは問題ありませんでした。携帯電話は相変わらず不通でしたが、つぢさんからCメールが来ていることに気がつきました。返信しようにもこちらからはメールも電話もダメだったので、貴重な会社の電話を借りて状況を連絡しました。

 8時過ぎにレンタカー屋に行くと、電気がないので営業できない状態でした。ここで、しばらく北上市で留まるか、南下してみるか、青森に上がってみるか、やはり地震が起こっている新潟まで行ってみるか相談をしました。まず北上市に留まるのは、みんないらちなので却下でした。南下する案も、ラジオで福島原発が大変そうだったのと、東北自動車道が通れないだろう、海岸沿いも津波警報が出ているから却下。青森の状況を確認するためにTさんに電話すると、やはり水も電気もないとのことでした。Tさんからは、自分は安全だが、現場事務所は津波で流され、岸壁にはタンカーが衝突しているとのことで、津波の驚異を改めて感じました。そうなると新潟行きしかありません。

 レンタカー屋にレンタル延長と新潟乗捨てを了承してもらい、まずは秋田県に向かいました。相変わらず信号はなく、主要な場所では消防組合の方が手旗信号となっておりました。ガソリンはほとんど減っていなかったのですが、念のために入れて行こうとGSに寄ったところ、電気がないために給油できないとのことでした。ガソリン残量と新潟までの距離は、ギリギリ大丈夫そうでしたが、渋滞などを考えると不安でした。
 また、コンビニはやっていても食品がなく、雪道を1時間くらい走って岩手県を出たあたりでやっと、まだ食料が残っている店があったので魚肉ソーセージで朝食を摂りました。
 ずっと雪道でしたが、吹雪いているわけではなく、順調に進むことができました。雪山も湖も白くて美しく、決死の逃避行から幾分、気を紛らわしてくれました。まだ上越新幹線が復旧していないにも関わらず、Iさんが土曜日中に神奈川に帰る気満々だったのをいじったりして、あぁ1人でなくて良かったと泣きそうになりながら冗談を言っていました。
 さらに雪道を抜けてしばらくすると横手に着きました。横手の手前ぐらいで無理に交差点に突っ込んできた車に当てられそうでしたが、O君のテクニックで避けることができました。
 横手も電気が復電していませんでした。O君がトイレに行くたくなったので警察署に行くと、水道が止まっているので小だけにしてくださいと言われました。結局、しばらく行った先の工事用仮設トイレを拝借しました。
 横手につくまでは横手焼きそばの話ばかりしていましたが当然食べることは叶いませんでした。
 横手の辺りは開けていて、それから山形までは2時間ほどだったでしょうか。最上川の景色が雄大で美しく、不安な気持ちを慰めてくれました。山形に入って50kmくらい行ったあたりで、GSに車が集まっていることに気がつきました。正午過ぎくらいに風車がたくさんある街に入ってから、左側にGSがあったので入ってみると、給油できるとのことで、20Lほど給油しました。これで確実に新潟まで行けることがわかり、安心しました。GSの人によると、その辺りでは10時くらいから復電したとのことでした。

 しばらく先のドライブインで白藤ラーメンを食べました。納豆がのっていて美味しかったです。そこで初めてTVを見て、脅威的な津波の映像に凍りつきました。正直、地震は今までの地震の延長線上だと感じていましたが、津波は想像を絶していました。また、原発の状況にも唖然としました。戦力の逐次投入は最悪の方法だと銀河英雄伝説でもありましたが、まだ海水を注入せず、再利用できるような方法をとる気持ち、よく理解できます。夏の電力需要や経済性を考えると、現場の人間には原発を再利用不可能にするような大きな決断はできないのです。

 15時くらいに再出発し、雪山の中の温泉街を通りました。とても雰囲気の良い温泉街だったので、山形空港や庄内空港が復旧しているのでこの辺りで一泊しようかとも思いましたが、神奈川に帰りたいIさんの反対により走り続け、日本海に出ました。津波注意報は出ていたと思いますが、水面がキラキラとしていて眩しかったです。16時くらいに上越新幹線が復旧し、Iさんが帰れるようなのでまた陽気に。

 海岸沿いをしばらく走り、ちょうど無料区間の高速にのって新潟へ。18時くらいに着いて新潟駅前のレンタカー屋の近所で満タンに給油しました。新潟駅前のレンタカー屋に行くと、同じように東北各県からの乗捨てが多く、乗捨てを断られました。仕方ないので翌日に他店舗へ持って行く事とし、新潟駅でIさんとO君を降ろしてホテルにチェックインしました。

 新潟のホテルは電気も水もあり、前日とは別世界のようでした。無線LANもあり、iPadからつぶやいてみたりしました。ホテルの向かいには風俗のビルがあり、営業していて、新潟が平和というより北上あたりの異常さに改めて大変なことになっていたんだなぁと思いました。
 駅で翌日の新幹線を予約し、下着類を購入して(日帰りだったし、金曜日は風呂に入らなかったので)、駅前の日本一という、ちょっと外れっぽい居酒屋に入ったところ、ここが大当たりでした。もつ鍋、のどぐろのお刺身、ホタルイカの沖漬け、椎茸となんでも美味しく、とくにニシンの塩焼き(メスオスによって中に白子か数の子が入っている!)はまた必ず食べに行きたい味でした。しかも、新潟の日本酒を楽しむ会というのが地震のために中止になったので、レアな日本酒(大将によると4合ビンでどれも三千円以上)が1合600円で飲むことができました。話半分としても原価率が80%を超え、何れも味が実際に話以上かも、という美味しさ。6合飲んでも安くてオススメです。

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のどぐろのお刺身

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ニシンの塩焼き お腹には数の子

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椎茸

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イワシの塩焼き

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鳥雑炊 魚沼産こしひかり

 ホテルに戻り、湯をはって風呂に入りました。水どころかお湯まで使いたい放題という幸せ。現金なものです。翌日はレンタカーを返却して上越新幹線で東京へ行き、東海道新幹線で大阪へ帰りました。上越新幹線は新潟の地震の影響で30分ほど到着が送れましたが、東海道新幹線はこんなときでも定刻で運行しいて驚きました。
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