※布教の意図は全く微塵もありませんが信仰・宗教に関するお話です。
※読解によっては不謹慎なお話です。
以上がNGの方は、誠に恐縮ですが本日はご遠慮ください
(批評反論は歓迎ですが、“そうである”だけで嫌悪されるのはやなんで)。
いいですか?
昨夜、小生が通い神主(心得見習)を努める神社で、御百度(おひゃくど)参りをしてきました。その理由を詳述するとまさに「不謹慎」なので止めておきますが、まぁ、体の具合が悪い人への回復祈願です。
そしてふと、お百度ってものに対して誤解を含めた諸説が入り乱れてるなぁ、と思いましてね。いや、「諸説」の方は解釈の問題だから仕方ないとしても「誤解」の方はなんかやだし。別に「お百度の全て!」なんて書く気はないんですが、ちょっと触れてみようかと。
といっても、誤解の最たるが「お百度で呪いができる」。まぁそんなに頻繁に聞く話じゃないですが、夏の怪談でたまに耳にします。
ま、確かにお百度って「願掛け」「祈願」が目的なワケですから、それを行う人間が他人の不幸など悪いことを「願掛け」すれば、パッと見「呪い」に見えるわけですが、受け取る側の存在は、呪いを受け取ったりはしません。
問題は、祈願の手段としてのお百度ではなくて、それを使う人間側の心持ちってことですな。
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お百度の仕方ですが、たいていは、神社の鳥居と礼拝をする社とを百往復します。走る必要はないですが、小生の通う神社では走ることが多いですねー。もちろん、途中でへばって歩き歩き挟み込みますが。ウチでは、だいたい往復で40〜50メートルなんで、通算すると4〜5キロ走ることに。
一回ごとに社にお供えをしますが、この金種は問いません。10円×100回でも無問題。大事なのは、100回礼拝するという行為そのものなんで。
でまぁ、やはり半分もいくと、疲労やら懸命さやらで頭がボーっとしてきます。よく、トランス状態になる、なんていいますが、それに近いものがあるのかも。雑念も消えていくので、ま、よくいえば純粋に祈願できてるワケですな。昔の祈祷師なんかもこんな感じだったのかもしれません。
願掛けとしてはかなり大変なんで、誰かが大病を患っているとか、手術があるとか、重体だとか、そういう時にやることが多いですね。小生の家族も、父が大病で手術をする前の日にやったことがあります。昨日は多くの人が世話になった人の回復祈願だったので、数十人でやりました。
ま、こういった願掛けを“受け取る側の存在”をどう考えるかは、それこそ個々人の思想や人生によるので言及はしませんが、こういうものは現代でもあるんだ、ってことは書いておきますです。
そういえば、お坊さんの書く、世俗的な話しも交えた寺の修行や生活のブログが大人気らしいですが、その神主版でもやってみるかな(←小生の神主レベルじゃ無理ですがw)。
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一年前の日記
●音楽好きのおじさん達
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=16586750&owner_id=65677
音楽話。ホントにすごい4人のセッション。
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