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2008年10月10日06:31

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久しぶりに

宮部みゆきの模倣犯を読んだ。気持ちの良い話ではないし、文庫で五巻セットというかなり長いものなので、もう読む事はないかと思っていたのだけど、PCを修理に出すと少し暇が出来たのでその時間を充ててみた。悪いものの話が特別好きな訳ではないが、たまになら読んでおくのもマイナスな事ではない気がしていたのだけど。悪いものの話とは書いたが、存在としての単純な"悪"ではなく、腐ったり傷んだりする方の"悪いもの"という表現の方が近いだろう。この作家は本来、心温まる良い話、を描く人だというイメージが強かったので(それ以前の作品もかなり重いものは多かったが)、こんなに酷い出来事をここまで描くとは意外だった。が、恐らく、そういった悪いものから眼を背けて、口当たりが良いだけの物語を書いたところで、知ってしまった以上それはもはや嘘にしかならないという良心のもと生み出されたのじゃないかと思える。
 そんな話を読んでいるとニュースが流れてくる。六歳だかの女児が三十分程度の間に殺されて剥かれて放置されていた事件で、被害者の母親が事件後間も無く声明を出したというものだ。それを見たうちの母親が気丈だと言っていた。確かに気丈であるとも思うけれど、マスコミからの取材が酷いので、声明に代えてそれ以上の取材を断り、活動を自粛させる様に仕向けたのだろう。そんな事を被害者に強いるマスコミに憤りを覚えもするが、それよりもあたしが感じたのは、被害者や遺族にはもう、ある意味での覚悟の様なものが出来ているのじゃないかという事だ。無論、その場で何の落ち度もない人間が殺される事なんて許されないし、あってはならない事だと誰もが認識している。けれど、例えば子供を生み育てて、幼稚園や保育所、小学校に上げる時に防犯ブザーが配布されたり所持を促され、GPS機能で現在地を確認できる携帯電話等を持たせようかと考えている時にはもう既に「そういう事を起こすそういう人間」の存在を意識しているし、実際にニュースで似た様な事件が流れた時に思うのは「何故?」ではなく、被害者を悼み哀れみつつも「自分を含めた身近で起こらなくて良かった」という事ではないだろうか? 「それが他人であって良かった」という発想に後ろめたさを感じるかも知れないが、それは責められる様なものではなく、むしろ当然の反応だと思う。今の世界に起こりうる「そういう人間によるそういう現象」を知ってしまった以上、自分に降りかからない事を祈るしかないという恐怖に苛まれた人たちは、戦いながら、少しずつ覚悟を強いられている。そういった覚悟を含んだ空気はどこにでも漂っていて、薄まってはいるが何かしら毒の様でもあり、それに触れた結果、人というものが被害者にも加害者にもなりうるのじゃないかと考えてしまう。何の毒も無い世界でも、人はそうなるモノなのかも知れないが、それでも、ある方向へと惹き擦り、否応無くその事態に押し付ける燃料になりうるのではないか。そして今はその燃料たり得る劇物を、持て余すしかないのが普通の人間なのだろう。それを酸素の如く消費し、力に変えられる技術はまだ確立されていないのだから。

画像は相変わらず拾ったお気に入りの壁紙。左から一番目、にわかDJぽくてかっこいいじゃん? 二枚目、これ使ってる時にPC壊れた曰く付き。三枚目、いや流石に実用(どっちの意味だ)してはいないけど、たまにはこんな安直つーか、らしい画像でも。
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