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2024年03月10日09:30

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交わるといふ事

自分の苦しみはどこまでも自分のものであって、なかなかに余人と分かち合うことはできない。それはあたかも免疫機構が、外部からの侵入者を敵と見做して一斉包囲し、、攻撃殲滅する如きである。

「人間の苦痛の叫びは、不思議にも、他人に聞こえぬものらしい。ましてや住む世界を異にすれば嘲りの種ともなる仕儀ぢゃ」

前回引いた石川淳は、『夢応の鯉魚』(雨月物語)でそれこそ俎板の鯉となった石山寺の老師の言をこう意訳した。

人間は、絶対に人間と交わることはできない。親兄弟、夫婦といえども。
交流交際はできても、そして恋人同士が肉体でつながることができても。事実、生物学的に免疫系は内部と外部を峻別するし、いくら愛しているからといって、癌を患った相手と身体を交換できぬではないか。
むかし ー 40年ほど前 ー 自分には愛する彼女があった。互いに結婚しようと思っていたし、24時間ずっと一緒にいたかった。ある日彼女とセックスしたとき、

「俺は一個の細胞と化し、溶けて流れてこの娘に同化しても構わない。自分なぞ、消滅しても構わない」

強くそう思った。むしろ「願った」と言ってもいいだろう。

ところがどうだ。今や彼女がどこに住み、何をしているのかわからない。どんな相手と結婚したのか、子どもはあるのか。生死さえも全くわからぬありさまだ。
自分はつらつら考える。「これはいったい、何なのか」と。

1mm単位で最も近接し、誰よりも愛していた女が、今や永遠の彼方にいるという事実。意識はともかく結果において、路傍の石だったという事実。
かくなる冷厳な事実を前にして、俺は「人と人とは交われる」などとは言われない。オプティミズムに過ぎるだろう。

交流交際と「真に交わる」との間には、山よりも高く海よりも深い懸隔がある。交流の「流」は流れ流れて一過性。ひとところにとどまりたるためしなし、であり、交際の「際」は文字通り「きわ」。
図形なら、「辺」すなわち直線上の交差に過ぎず、二等辺三角形の内部に入り込むことはない。
※ 竹久夢二が言ったとおり、線を見つめて「余白」を思うのみ。

数学的にはせいぜい二次元まで。三次元モデルは二次元を立体化(空間化)したに過ぎぬから、これも同断だろう。

フォト


時間を加えた四次元こそが問題だ。個も空間も、時間の経過につれて変化する。図にある立方体も常に立方体ではなく、変化してゆく。
時を経てもなお変わらぬ愛、交わり。これは生者には不可能だ。

その人のために、死ぬしかない。

「歴史には死人だけしか現れてこない。したがってのっぴきならぬ人間の相しか現れぬし、動じない美しい形しか現れぬ。
思い出となれば、みんな美しく見えるとよく言うが、その意味をみんなが間違えている。
ぼくらが過去を飾りがちなのではない。過去の方でぼくらに余計な思いをさせないだけなのである」

小林秀雄の指摘は的を射ている。

キリストの愛は、人間の罪を一身に背負って十字架で死んだことにある。他ならぬ、あなたやわたしのために彼は死んだのだ。
だから彼とは交われる。おそらく、永遠に。

ーーー

シンディ・ローパーを三曲。
◆Change of Heart

https://youtu.be/LGV1xTgJf0Q?si=qhF8cZkhK_2MwAs_

◆I Drove All Night

https://youtu.be/I8aFBeeIJ9I?si=4qolnaqzz_DP-R0K

ラストは彼女とふたりで聴いた曲。
◆All Through The Night

https://youtu.be/iU1ywV2BsB8?si=Jy7WY4P1r-6n-flr

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