mixiユーザー(id:48382454)

2022年11月13日01:45

19 view

11月13日の日記

今日の出来事:1504年−長享の乱:立河原の戦い、1720年−心中天網島:紙屋治兵衛と紀伊国屋小春が心中、1942年−第三次ソロモン海戦:第一夜戦、1981年−沖縄本島の与那覇岳で約100年ぶりに新種の鳥が発見され、「ヤンバルクイナ」と命名される、1983年−ミスターシービーが菊花賞を勝ち、シンザン以来19年ぶり、日本競馬史上3頭目の三冠馬となる

今日は、長享の乱:立河原の戦いです。立河原の戦いは、武蔵国立河原(現在の東京都立川市)で、上杉顕定・足利政氏らの連合軍と上杉朝良・今川氏親・北条早雲らの連合軍との間で行われた合戦です。「長享の乱」の事実上の決戦となりましたが、勝利した上杉朝良が結果的に上杉顕定への降伏を余儀なくされる事となりました。「享徳の乱」で勢力を伸ばした扇谷上杉家と上杉氏の宗家として代々関東管領を継いできた山内上杉家の間で繰り広げられた「長享の乱」は、扇谷上杉家当主・上杉定正が健在の時は互角の戦いを続けてきました。上杉定正の死後は、山内上杉家当主・上杉顕定の反撃と第三勢力であった古河公方・足利政氏と上杉顕定の同盟によって、扇谷上杉家は苦境に立たされるようになりました。扇谷上杉家の新当主・朝良は駿河守護・今川氏親の客将で後見人的存在であった北条早雲に、相模西部の中心である小田原城を譲ってその軍事支援を頼みました。北条・今川軍の支援を受けられるようになった上杉朝良は、再び勢力を回復して戦況は一進一退を繰り返すようになりました。上杉顕定は武蔵国上戸(現在の埼玉県川越市)に拠点を構えて、扇谷上杉家の拠点・河越城の攻撃の準備を進めましたが、攻略に失敗したため、7年近くも入間川を挟んだ地に釘付けとされました。1504年、同盟関係にある足利政氏の援軍を得た上杉顕定は河越城を攻めるため、実弟の越後守護・上杉房能に援軍派遣を依頼し、自らは兵を河越城下へと進めて攻撃を始めました。上杉朝良は北条早雲・今川氏親に援軍を求める一方で、これを堅く守り続けました。北条早雲は小田原城を出発、今川氏親も駿府を出発す、更に遠江にいた今川氏の重臣・朝比奈泰熙と福島助春も関東へ出発しました。一方、上杉顕定は河越城をこれ以上攻めても成果は上がらないと判断し、一転して陣を武蔵国白子(現在の埼玉県新座市)に移し、先に江戸城を落として南北から河越城を挟撃する策を取る事にしました。しかし、北条・今川の動きを知ると白子に留まって様子を見をし、大森顕定に甲斐守護・武田信縄へ援軍派遣要請を行わせました。北条早雲と今川氏親は武蔵国枡形城(同神奈川県川崎市多摩区)に入りました。これを受けて上杉顕定も兵を南に進め、河越城を守っていた上杉朝良も今川軍に合流しました。11月13日の辰の刻(午前八時頃)、扇谷上杉朝良・今川氏親・北条早雲軍が多摩川を渡って立河原に上陸した事を知った山内上杉顕定・古河公方足利政氏連合軍が、立河原に駆けつけて両軍睨みあいとなりました。正午頃より合戦が始まり、戦いは夕方まで続きました。多摩川渡河を許した山内上杉軍は苦戦をし、ついに潰走しました。この戦いで、山内上杉軍は長野房兼・長尾房清ら2000人もの戦死者を出しました。この戦いに参加した上杉顕定の家臣・毛呂顕季は戦死した者は数知れずと記録しています。上杉顕定は本拠地である北武蔵の鉢形城に命からがら逃れ去りました。越後では主君・上杉房能の命を受けた越後守護代・長尾能景は、上杉顕定と合流するために出陣の準備を進めていましたが、「立河原の戦い」での大敗の報を聞いて直ちに兵を率いて鉢形城に入りました。長尾能景は上杉顕定に、上杉朝良が兵を休めている今こそ好機である事を力説して出陣を説きました。これを受けて越後軍が主力を占める上杉顕定・長尾能景連合軍が河越城を攻撃しました。兵を休ませて時期をみて上杉顕定を討つ算段をしていた上杉朝良は、上戸で長尾景致を討ち取って進撃を防ぐのがやっとでした。長尾能景は、その勢いで椚田城を囲んで扇谷上杉方の城主・長井広直を討ち取り、山内上杉方の三田氏宗を城主にすると、続いて実田城を攻め落として扇谷上杉の相模守護代・上田正忠を捕虜にしました。これによって扇谷上杉領と今川・北条領は遮断されました。翌年になると再度、上杉顕定・長尾能景の軍勢が河越城を包囲しました。兵の不足によって抗する事が出来なかった上杉朝良は、降伏を表明しました。これによって「長享の乱」が終結しました。

次に、心中天網島です。紙屋の治兵衛は二人の子供と女房がありながら、曽根崎新地の遊女・紀伊国屋小春の三年に亘る馴染み客になっていました。小春と治兵衛の仲はもう誰にも止められぬほど深いものになっており、見かねた店の者が二人の仲を裂こうとあれこれ画策しました。離れ離れになるのを悲しむ小春と治兵衛は、二度と会えなくなるようなら、その時は共に死のうと心中の誓いを交わしました。ある日、小春は侍の客と新地の河庄にいました。話をしようにも物騒な事ばかりを口にする小春を怪しみ、侍は小春に訳を尋ねました。小春は「馴染み客の治兵衛と心中する約束をしているのだが、本当は死にたくない。だから自分の元に通い続けて治兵衛を諦めさせて欲しい」と頼みました。開け放しておいた窓を閉めようと小春が立った時、突如格子の隙間から脇差が差し込まれました。それは小春と心中する為に脇差を携え、店の人々の監視を掻い潜りながらこっそり河庄に来た治兵衛でした。窓明かりから小春を認めた治兵衛は窓の側で話の一部始終を立ち聞きしていたのでした。侍は治兵衛の無礼を戒める為に、治兵衛の手首を格子に括り付けてしまいました。すると間が悪い事に治兵衛の恋敵である伊丹の太兵衛が河庄に来てしまいました。治兵衛と小春を争う太兵衛は治兵衛の不様な姿を嘲笑しました。すると治兵衛を格子に括った侍が今度は間に入って治兵衛を庇い、太兵衛を追い払いました。実は武士の客だと思ったのは侍に扮した兄の粉屋孫右衛門でした。商売にまで支障を来たすほど小春に入れ揚げている治兵衛に堪忍袋の緒が切れ、曽根崎通いをやめさせようと小春に会いに来たのでした。話を知った治兵衛は怒り、きっぱり小春と別れる事を決めて小春から起請を取り戻しました。しかし、その中には治兵衛の妻・おさんの手紙も入っており、真相を悟った孫右衛門は密かに小春の義理堅さを有難く思うのでした。それから10日後、きびきびと働くおさんを他所に治兵衛はどうにも仕事に精が出ず、炬燵に寝転がってばかりいました。その時、治兵衛の叔母と孫右衛門が小春の身請けの噂を聞いて、治兵衛に尋問しに紙屋へやって来ました。ここ10日治兵衛は何処にも行っていない、身請けしたのは恋敵の太兵衛だという治兵衛とおさんの言葉を信じ、叔母は治兵衛に念の為、と熊野権現の烏が刷り込まれた起請文を書かせると安心して帰っていきました。しかし、叔母と孫右衛門が帰った後、治兵衛は炬燵に潜って泣き伏しました。心の奥ではまだ小春を思い切れずにいたのでした。そんな夫の不甲斐無さを悲しむおさんでしたが、「もし他の客に落籍されるような事があればきっぱり己の命を絶つ」という小春の言葉を治兵衛から聞いたおさんは、彼女との義理を考えて太兵衛に先んじた身請けを治兵衛に勧めました。商売用の銀四百匁と子供や自分のありったけの着物を質に入れ、小春の支度金を準備しようとするおさんでした。しかし、運悪くおさんの父・五左衛門が店に来てしまいました。日頃から治兵衛の責任感の無さを知っていた五左衛門は直筆の起請があっても治兵衛を疑い、おさんを心配して紙屋に来たのでした。当然父として憤った五左衛門は無理やり嫌がるおさんを引っ張って連れ帰り、親の権利で治兵衛と離縁させました。おさんの折角の犠牲も全て御陀仏になってしまったのでした。望みを失った治兵衛は虚ろな心のままに新地へ赴きました。小春に会いに来たのでした。別れた筈なのにと訝しがる小春に訳を話し、もう何にも縛られぬ世界へ二人で行こうと、治兵衛は再び小春と心中する事を約束しました。小春と予め示し合わせておいた治兵衛は、蜆川から多くの橋を渡って網島の大長寺に向かいました。そして11月13日の夜明け頃、二人は俗世との縁を絶つ為に髪を切った後、治兵衛は小春の喉首を刺し、自らはおさんへの義理立てのため、首を吊って心中しました。この事件を、近松門左衛門は人形浄瑠璃として上演しました。

その次に、第三次ソロモン海戦:第一夜戦です。日本軍挺身艦隊は、本隊(第十一戦隊)「比叡」、「霧島」、直衛隊(第十戦隊、第十六駆逐隊、第六一駆逐隊)、警戒隊(第四水雷戦隊)、ガダルカナル島〜ラッセル岬警戒隊(第二十七駆逐隊)から編成されていました。挺身艦隊は、ガダルカナル島海域に突入しました。最初の犠牲艦は”ラッキーA”のニックネームをもつ巡洋艦「アトランタ」でした。「アトランタ」は旗艦「サンフランシスコ」から誤射されました。続いて戦艦「比叡」、軽巡「長良」の砲撃によってノーマン・スコット少将以下幹部が全滅、日本艦隊が発射した魚雷2本が左舷に命中して戦闘不能となりました。今度は「サンフランシスコ」、「カッシング」、「ラフィー」、「ステレット」、「オバノン」が、探照灯を照らして戦場を進む日本艦隊旗艦「比叡」を目標としました。主砲から機銃まであらゆる砲が発射され、「比叡」の艦上部構造物に命中しました。炎上した「比叡」は通信装置、操舵装置が故障、主砲は2−3斉射したところで電路切断により統一射撃ができなくなり、阿部司令官や西田艦長も負傷しました。混乱の中で「比叡」はスクリューによる操艦で戦場を離脱しました。「オバノン」は「アトランタ」と共に駆逐艦「暁」を撃沈し、「ステレット」と共に「比叡」に魚雷を発射して2本を命中させましたが、これは不発でした。「ステレット」は「比叡」もしくは「霧島」の砲撃を受けて火災が発生、戦場を離脱しました。航空機の脅威を排除する防空駆逐艦として建造された秋月型駆逐艦「照月」は「カッシング」を主砲長10cm連装高角砲で破壊し、巡洋艦を含む7隻に160発を発射しました。「五月雨」も「比叡」に向けて機銃を誤射し、射撃中止命令が混乱の中で伝わらないうちに「比叡」から高射砲か副砲の反撃を受けました。駆逐艦「ラフィー」は、発射艦不明の魚雷が命中して沈没しました。戦艦「霧島」と駆逐艦「電」、「雷」、「照月」は砲雷撃で「サンフランシスコ」を撃破し、キャラハン司令官、ヤング艦長を戦死させました。駆逐艦「夕立」は単艦で米艦隊に突入、午後11時54分に魚雷8本を発射しました。1分後に巡洋艦「ポートランド」の右舷後尾に魚雷を命中させ、米巡洋艦は翌朝まで戦場の中心で右旋回運動を続けました。さらに「夕立」は米艦隊の中央を突破して巡洋艦1隻、駆逐艦1隻に命中弾を発射しました。しかし、午前0時13分、駆逐艦「ステレット」もしくは「フレッチャー」が砲撃を行い、被弾した「夕立」は航行不能となりました。中村悌次「夕立」水雷長は、味方の軽巡洋艦「長良」に誤射されたと推測しています。駆逐艦「バートン」は味方艦との衝突を避けるため急停止、機関を再始動させようとした時に魚雷2本が命中して轟沈しました。駆逐艦「モンセン」は「比叡」を砲撃していましたが、あらゆる艦から集中砲撃を受けて戦闘不能となりました。巡洋艦「ジュノー」は「夕立」を砲撃していたところ、「天津風」が発射した魚雷が命中して大破しました。その「天津風」は巡洋艦「ヘレナ」が発射した6インチ砲2発が命中して舵故障、射撃装置も破壊されて戦闘不能になりました。連合艦隊長官・山本五十六大将はラバウルの第十一航空艦隊に対し、ガダルカナル島へ制空隊を派遣するよう命じました。日本軍は駆逐艦「暁」が沈没し、山田勇助司令、高須賀修艦長らが戦死、生存者は18名でした。「夕立」が大破航行不能となり、敵艦隊の攻撃により沈没、生存者は「五月雨」と「雷」に移乗しました。戦艦「比叡」が舵故障を起こしてサボ島北を微速前進し、駆逐艦「天津風」が中破、「雷」が死傷者80名近くを出して大破、「春雨」が缶室に被弾してそれぞれ退避、戦艦「霧島」と軽巡洋艦「長良」は損傷を受けず、それぞれ単艦で北方へ離脱、第四水雷戦隊各艦と「照月」は午前1時30分から午前2時ごろ「霧島」を発見して合流し、後続しました。「五月雨」は「霧島」に後続していましたが、命令により引き返して「夕立」の救援作業を行います。「五月雨」は午前3時ごろ魚雷を発射して「夕立」を処分しようとしましたが魚雷命中の水柱が確認できず、砲撃処分中に米重巡洋艦と駆逐艦の砲撃を受けて退避しました。「五月雨」はSBDドーントレスの爆撃を回避しつつ午後3時頃ショートランド基地に到着しました。放棄された「夕立」は漂流していましたが、米艦隊が砲撃して沈めました。米軍は、指揮官のキャラハン少将と次席指揮官のスコット少将が戦死、軽巡洋艦「アトランタ」は掃海艇ボボリンクに曳航されて離脱しようとしましたが、13日夜に自沈、「ジュノー」は13日午前中に伊−26潜水艦(横田稔艦長)の雷撃を受けて沈没、駆逐艦「カッシング」、「モンセン」、「アーロン・ウォード」、「ラフィー」、「バートン」が沈没しました。生き残った重巡洋艦「サンフランシスコ」(大破)、「ポートランド」(大破)、軽巡洋艦「ヘレナ」(小破)、駆逐艦「オバノン」(小破)、「ステレット」(中破)、「フレッチャー」は西方に退避しました。日本軍挺身艦隊は米軍に対する戦果を「重巡洋艦5隻撃沈、重巡洋艦2隻大破(1隻座礁)、防空巡洋艦2隻撃沈、駆逐艦3隻撃沈、駆逐艦6隻大破・中破、魚雷艇1隻大破」と報告しています。日本軍挺身艦隊の旗艦・戦艦「比叡」は、鎮火には成功したものの、サボ島北の海域を離脱できずにいました。周囲が明るくなると、米軍は「比叡」にとどめをさすため、次々に航空部隊を送り込みました。阿部司令官や第十六駆逐隊司令官(雪風乗艦)が夜明け前に上空掩護を要請すると、午前3時20分に空母「隼鷹」から零戦6機、九九艦爆2機(誘導機)が発進し、「比叡」上空に急行しました。「ヘンダーソン飛行場に進出せよ」という命令を受け、魚雷を抱いたまま空母「エンタープライズ」を発進した第100雷撃隊は、サボ島16km北にいた「比叡」と駆逐艦4隻を発見しました。雷撃隊は二手にわかれると、「比叡」を挟み撃ちにしました。同隊は「比叡」の左舷に魚雷1本、右舷に1本、艦尾に1本を命中させました。こうして「比叡」は、太平洋戦争で最初に沈没した日本海軍戦艦となりました。「比叡」の戦死者188名、負傷者は152名でした。

その次の次に、沖縄本島の与那覇岳で約100年ぶりに新種の鳥が発見され、「ヤンバルクイナ」と命名されるです。数年前から山階鳥類研究所の研究者らは沖縄本島北部に位置する山原(やんばる)地域で、種不明のクイナ類を目撃していました。1981年に調査を行った結果、2羽を捕獲し、同時に入手された1羽の死体(剥製標本)とあわせて検討された結果、学界に未知の新種である事が判明しました。そして、「ヤンバルクイナ」と命名されました。沖縄本島北部をヤンバル(山原)と呼ぶ事に由来します。新種の記載に先立って、1981年に現地で捕獲調査を実施した山階鳥類研究所の調査チームの間では、和名として「ヤンバルクイナ」か「ヤンバルフミル(フミルはバンの地方名)」にしようという話し合いがなされていました。当時は「ヤンバル」という名前は一般的でない名称であったため、山階鳥類研究所の内部では「オキナワクイナ」という名称が相応しいという意見がありました。しかし、「鳥の保護には地元の理解と協力が不可欠なので、それにはより具体的なヤンバルを名前に入れるのがよい」という判断から、最終的に「ヤンバルクイナ」という和名がつけられました。これ以前にも「ヤンバル」を冠した生物名称はありましたが、全国的に広く知られるようになったのは本種の命名以後の事です。

最後に、ミスターシービーが菊花賞を勝ち、シンザン以来19年ぶり、日本競馬史上3頭目の三冠馬となるです。ミスターシ−ビーは、1982年11月16日に東京の新馬戦でデビューしました。鞍上は母・シービークイーンの主戦騎手・吉永正人が以後、引退まで騎乗しました。初戦は先行策から2着に5馬身差を付けて快勝しました。2戦目の「黒松賞」は、スタートの出遅れから直線での先行馬との競り合いを制して、クビ差で辛勝しました。「ひいらぎ賞」も、スタートで大きく出遅れたため無理に前を追い掛けず、そのまま後方待機策を取った結果、先行したウメノシンオーにクビ差届かず2着となりました。しかし、最後の直線で鋭い追い込みを見せた事で、以降のミスターシービーは追い込み馬となりました。翌1983年2月13日の「共同通信杯4歳S」は、後方待機から第3コーナーで位置を上げ、ウメノシンオーとの競り合いをアタマ差制して優勝しました。「弥生賞」では、レース後半に内埒沿いのコースから馬群の間を縫うように上がっていき、自己最速の上がり3ハロン35秒8を記録して快勝しました。4月17日の「皐月賞」は、降雨の中で追い込み馬には不利とされる不良馬場となりました。道中16、17番手を進むと、向正面から先行馬を捉えに上がっていき、最終コーナーでは先頭を行っていたカツラギエースの直後に付け、最後の直線で先頭に立つと追い込んできたメジロモンスニーを半馬身抑えて優勝しました。東京優駿(日本ダービー)では、単勝1.9倍の圧倒的1番人気に支持されました。スタートで出遅れて最後方からとなり、向正面出口から徐々に進出すると第3コーナー出口の地点では先頭から6番手の位置まで押し上げました。しかし、最終コーナーに入った地点で外に斜行してきたタケノヒエンを回避した際、さらに外を走っていたキクノフラッシュと衝突した上、後方から進出してきたニシノスキーの進路を横切る形となりました。ミスターシービーはそこから体勢を立て直して先行勢を追走すると、内で粘るビンゴカンタを一気に交わしてゴールしました。皐月賞に続き、2着にも追い込んだメジロモンスニーが入りました。秋初戦の「京都新聞杯」は、カツラギエースから7馬身以上離されての4着となりました。「菊花賞」では1番人気に支持され、道中は1000m通過59秒4という速めのペースの中、最後方を進みました。第3コーナー上り坂から先行馬を次々と交わしていくと、ゆっくり下る事がセオリーとされる最終コーナーの下り坂を加速しながら先頭に立ち、大きなリードを保ち続けて最後の直線を逃げ切り、1964年のシンザン以来19年振りとなる史上3頭目の「クラシック三冠」を達成しました。父内国産馬が三冠馬となったのは、日本競馬史上初めての事でした。また、デビュー戦から三冠達成まで全て一番人気に支持されたのも史上初でした。翌1984年は、蹄の状態が悪化して春は全休となりました。10月の「毎日王冠」で一年ぶりの実戦復帰、後方待機からカツラギエースを捉えきれずに2着に敗れましたが、破格の上がり3ハロン33秒7を記録しました。「天皇賞(秋)」では、単勝1.7倍の圧倒的1番人気に支持されました。最後方を進んで、一時先頭から約20馬身の位置に置かれましたが、第3コーナーからスパートを掛けると直線で最後方大外から全馬を抜き去って優勝し、四冠馬となりました。1分59秒3はコースレコードでした。この勝利により、シンザン以降続いていた「天皇賞(秋)」の1番人気連敗記録を19で止めました。ジャパンカップでは、日本競馬史上初となる三冠馬同士の対戦が実現しました。シンボリルドルフは「菊花賞」より中一週という強行軍で初の古馬との対戦という事で、ミスターシービーが1番人気となりました。しかし、終始後方のまま10着と大敗し、シンボリルドルフも3着に終わりました。10番人気のカツラギエースが優勝し、日本勢として初のジャパンカップ制覇を果たしました。「有馬記念」は、ファン投票1位で選出されましたが、単勝はシンボリルドルフに次ぐ2番人気となりました。逃げるカツラギエースから15馬身後方の位置取りとなり、残り1000mで早めにスパートしましたが、インコースに突っ込んで前がふさがったため、シンボリルドルフと逃げ粘ったカツラギエースを捉えきれずに3着となりました。1985年は、3月31日の「大阪杯」で1番人気に支持されましたが、ステートジャガーに競り負けて2着に敗れました。「天皇賞(春)」でシンボリルドルフと3度目の対戦となり、後方から一気にまくって出るとスズカコバンと並んで最終コーナーを先頭で回りましたが、そこで力つきたところをシンボリルドルフに楽々とかわされ、10馬身以上離された5着に終わりました。その後、脚部不安を生じて休養、骨膜炎を発症して復帰を断念して引退しました。翌1986年に四冠が評価されて「顕彰馬」に選出されました。1984年に、父・トウショウボーイも選出されていたため、史上初の父子顕彰馬となりました。

今日の誕生日:岸信介(第56・57代内閣総理大臣)、大原麗子、由紀さおり、伊勢正三(元かぐや姫、元風)、本田雅人(元T−SQUARE)、見栄晴、木村拓哉(元SMAP)、棚橋弘至、大西ライオン、KICK☆、倖田來未、橋本小雪(日本エレキテル連合)、戸塚祥太(A.B.C−Z)、東李苑(元SKE48)、小合麻由佳(NiziU)

今日の記念日:うるしの日、茨城県民の日、いいひざの日、チーかまの日

今日の「今日訓」:本日は、茨城県民の日です。県名は「廃藩置県」後、間もなくに行われた県の統合の際に茨城郡の水戸に県庁が置かれたため、その郡名が採用されました。茨城という名は、賊を討つために茨の城(柵)を築いた事に由来します。読み方は、「廃藩置県」以来「いばらき」と読む事が正しいと定められています。1871年11月13日、茨城県域に「新治県」、「印藩県」、「茨城県」が置かれました。この時、初めて「茨城県」という県名が用いられた事で「茨城県民の日」となりました。その後、1873年6月15日に「印旛県」と「木更津県」が合併して「千葉県」が成立しました。1875年5月7日に「新治県」が廃止・分割され、そのうち下総国3郡は「千葉県」、常陸国6郡が「茨城県」と合併され、「千葉県」の結城、岡田、豊田、猿島の4郡および葛飾、相馬2郡の利根川以北が「茨城県」に移管されて現在の「茨城県」となりました。平安時代に文徳天皇の第一皇子・惟喬親王が京都の法輪寺に参詣した時に、「うるしの製法」や「漆器の製法」を虚空蔵菩薩から伝授されたという伝説から、その満願の日である11月13日を「うるしの日」に制定しました。「い(1)い(1)ひ(1)ざ(3)」の語呂合わせで「いいひざの日」、11月11日の「チーズの日」と11月15日の「かまぼこの日」の中間の日から「チーかまの日」となりました。
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する