「その日」私は税務署で期間限定のアルバイトをしていた。
所得税の確定申告の申告期は３月１５日。それまでの３週間限定のアルバイトだった。
仕事内容は、税務署に確定申告の相談に訪れた人々の誘導。
「敷地内で配置されたところに立って『こちらでーす』と言うだけ」の簡単なお仕事。
配置される場所にもよるけど、あちこちでストーブが焚かれてて寒くていられないようなことはなかったし、時給がとてもよかった。別に「パソコンを使った電子申告の補助」というお仕事があったのだけど、彼らは、ただ立っている私たちより時給が４００円くらい低い上に交通費が自己負担であるらしかった。私たち「立ってるだけ」の面々は決してアルバイト控室などで時給の話はしないように、とあらかじめ口止めされていた。「パソコンを使った電子申告の補助」は派遣会社に委託しているから、派遣会社が中抜きしてさらに交通費は自己負担だったため、結果として税務署に直接雇用されている「立ってるだけ」のほうが交通費も支給されているうえに手取りがよいというおかしなことになっていたらしい。今仕事でさんざん電子申告やってるからわかるけど、立っているだけよりはるかに難しいのに。
ちなみに電子申告をするパソコンコーナーにも椅子はなく胸のの高さの机で作業をするため、立っているだけの私たちと同じだけ一日中立っていた。
まったくとんでもなく不公平な話だ。
この時期は本当にたくさんの人が訪れるので、私がアルバイトをした税務署では
駐車場にプレハブの小屋をたてて、敷地内をぐるりと列が囲むように順路を作っていた。
朝から夕方４時くらいまで、小雨くらいなら空くということもなく人の列はちっとも短くならなかった。平均で誰もが１時間半くらい並び、２時間超えたら今日はちょっと混んでるネー、１時間をきったら「今日は空いててよかったですね！」というありさまだった。
時給の話をしなければよかっただけなのだけど、なんとなく「パソコンを使った電子申告の補助」の人たちとは控室では話をしなかった。もっぱら「立っているだけ」の仕事が同じ人と話をした。曜日や日時の都合で必ずしも同じ人とずっと一緒というわけではなかったし、期間限定のアルバイトだったのでお互いにそこまで積極的に親しくなろうとしたわけではなかったけど、他愛もないおしゃべりで笑いがこぼれるくらいには仲良くなっていた。
さてところで、そのときアルバイトしていた税務署の「資産税課」にすごいイケメンの署員さんがいた。新卒２年目くらい。背がすらっと高くて色が白くて、笑うと花がほころぶようだった。彼の名前がわからないので私は心の中でこっそり「ハナヤギくん」と呼んでいた。
税務署の署員さんは気苦労が多いのか
「……ハゲちらかってんなー……」
とつぶやいてしまうくらいハゲかけている人が多かった。しかもハゲのバリエーションが豊かで、後頭部が薄い人、白髪黒髪ハゲがまだらの人、全体的に薄い人…と博覧会ができそうなくらいの種類でハゲていた。そういう方たちはお年を召しているせいか気苦労が多いのか（重複して言ったけど、つまりは気苦労が多そう）皆苦い顔をしていたので、甘く微笑むハナヤギくんは本当に目の保養だった。もういまごろは彼もハゲて苦い顔をしたおじさんになっているかもしれないと思うとこちらもほろ苦いような気持になる。
さておき、そんなささやかな楽しみを見つけながら私は「立っているだけ」の仕事をしていた。
「その日」は結構仕事をするメンツが過半数入れ替わって、ほとんどお互い見知らぬ人同士になっていた。普段は国税の電話相談センターで回答者をしているという慶応大卒の小太りの青年と、おっとりとした美人で鎌倉からきているというマダム（と皆に呼ばれていた）、ずばずばちゃきちゃき喋る声のでかいおばちゃんだけはここ何回か一緒で面識があった。とはいえ、もうこのアルバイトも土日を除いてあと２，３日で終わる予定だった。
普段は国税の電話相談センターで回答者をしているという小太りの青年は、自分には知識があるという自負があるのか、列に並んでいる人に質問をされて、勝手な回答をして税務署職員さんを困らせていた。質問をしたほうは「税務署で働いている人」に質問をしているつもりだから彼の回答は「税務署の回答」と思ってしまう。
余計なことしなきゃいいのに、と思うけど彼は嬉々として知識を披露していた。
ちなみに失礼ながら、国税の電話相談センターの人員にはアタリハズレがある。
こちらの状況をよく確かめもせず、自分の知る範囲でテキトーに回答するような人が多々いる。そもそも電話してるのは複雑だったりイレギュラーだったりするから迷い悩んで電話しているのだから杓子定規で解決するわけないのだが、とにかく「あたりまえ」のことしか言わない。いやだからその「あたりまえ」に該当するのかがわからなくてこちとら電話してんのよ…。いっぽうすごく特殊な帳票についてケースバイケースで解説してくれるようなびっくりするような熟練に当たることもある。
なのでほんとアタリハズレがある、のだ。
ずばずばちゃきちゃき喋る声のでかいおばちゃんは語調がきつかったので、最初ちょっと苦手だったけど、同じ場所に配置されてみたら彼女なりに仲良くやろうとしてくれているのがわかった。素朴な税務職員のお兄さんが「ホッチキス」を言い間違えて「ほっつくす」と言ったのが妙に流ちょうな東北弁のようでおかしくて、彼をこっそり「ほっつくす君」と呼んでクスクス笑いを共有したりした。
「ん？何か？」
「いえ……何も……今日はプレハブとか間の通路とかじゃなくて税務署の建物の中なのであったかいなぁと思って」
とかなんとか、くだんのほっつくす君と他愛のないやりとりをしていたときだった。
何かぶつかったようなドーン、と大きな音がした。
音だと思ったけど衝撃だったかもしれない。
建物がぐらぐらとゆれて、壁がミシミシと音をたてた。揺れで建物が歪んでねじれているようで、ガラスが割れそうな気配がした。
地震？でもこんな衝撃知らない…トラックでもぶつかった？
とにかく、古い建物にこのままいたら危ない。持ち場をはなれたら怒られるかな…クビになるかも…でも怪我したくない！
私は走って建物を飛び出した。
建物を飛び出しても崩れてきたものが当たらないように、敷地外の道路まで走り出た。
見ると私以外にも職員がたくさん同じように道路に出てきてたのでほっとした。
「事故……？」
「いやいやなんもぶつかってない。地震だよ」
「震度いくつだった？」
「わかんない」
「どこかに出てないかなあ」
まだスマホはそれほど普及してなくて、みなガラケーでインターネットを閲覧していた。
ガラケーで閲覧できるサイトや容量には限りがあって、誰もこれといった情報を得られなかった。
「あ、なんか通知きた！」
ほっつくす君が叫んだのでみんないっせいに彼に注目した。
「震度いくつだったの？」
「早く早く！」
せかされるままメッセージをあけたのだけど
「……あ、ピザ屋のクーポンでした」
で、みなからばかもの、と小突かれていた。
「とりあえずもう揺れないみたいだから中に戻りましょうー」
と促され、なんとなくぞろぞろと皆持ち場に戻った。
私は自分の携帯をちらと確認したら電話会社に勤める弟から「無事です」と短いメッセージが入っていた。無事、だなんて大げさな。弟が勤務しているのは都内のビルなのでフロアが上のほうだったら余計に揺れたのかもしれないな、と思った。
敷地内に戻ると、人々がちょっとざわついていたけど、並んだ列はそのままでいた。
そういえば飛び出した中に税務署職員とアルバイト以外は数人しかいなかった。
たしかに一度列を出てしまうと並びなおしてまた2時間待ちとかになってしまう。
それにしても思わず飛び出してしまうような地震も建物のきしみも無視して並び続けていたのはちょっと薄気味悪かった（失礼）今になって思えば有事の際の有名な心理「正常性バイアス」と「同調性バイアス」が働いてしまったのだろう。
時計を見ると3時少し前だった。
終業まであと2時間……まだ結構あるなあ。
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