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2022年01月15日00:21

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01月15日の日記

今日の出来事:1181年−源平合戦:南都焼討、1455年−享徳の乱:享徳の乱勃発、1850年−お由羅騒動、1868年−六士斥候事件、1874年−初代警視総監(大警視)・川路利良が東京警視庁を創設

今日は、源平合戦:南都焼討です。南都焼討は、1181年1月15日に平清盛の命を受けた平重衡ら平氏軍が、東大寺・興福寺など奈良(南都)の仏教寺院を焼討にした事件です。「平治の乱」の後、大和国が平清盛の知行国になった際に、南都寺院が保持していた旧来の特権を無視して大和全域で検断を行いました。これに対して南都寺院側は強く反発しました。特に聖武天皇の発願によって建立され、以後は鎮護国家体制の象徴的存在として歴代天皇の崇敬を受けてきた「東大寺」と、藤原氏の氏寺であった「興福寺」は皇室と摂関家の権威を背景として、また「大衆」と呼ばれる僧侶集団が元来自衛を目的として結成していた「僧兵」と呼ばれる武装組織の兵力を恃みとして、反抗していました。しかし、「治承三年の政変」で皇室と摂関家の象徴ともいえる治天の君・後白河法皇と関白・松殿基房が清盛の命令によって揃って処罰を受けると、彼らの間に危機感が広がりました。1180年の「以仁王の挙兵」を契機に園城寺や諸国の源氏とも連携して、反平氏活動に動き始めました。「以仁王の挙兵」が鎮圧された後、平氏は乱に関わった園城寺に対する朝廷法会への参加の禁止、僧綱の罷免、寺領没収などの処分を行いました。興福寺は別当・玄縁が平氏に近い立場をとり、興福寺内部に平氏との和平路線をとる勢力が現れた事により、園城寺ほど厳しい処分はされませんでした。平氏と興福寺の緊張関係は、平氏の「福原行幸」後に一度緩和されましたが、この年の末に「近江攻防」で園城寺・興福寺の大衆が近江源氏らの蜂起に加勢しました。それによって平氏は平重衡が園城寺を攻撃して寺を焼き払うと、矛先は興福寺へと向く事になりました。清盛はまず妹尾兼康に兵500を付けて、奈良に派遣しました。清盛は妹尾兼康に対して出来るだけ平和的な方法での解決を指示し、軽武装で送り出しました。しかし、南都の大衆は妹尾兼康軍60余人の首を切り、猿沢の池の端に並べるという挙に出ました。妹尾兼康は命からがら帰京し、清盛を激怒させました。清盛は息子・重衡を総大将、甥・平通盛らを副将として4万の兵を向かわせました。これに対して南都大衆も般若寺と奈良坂に堀を築き、兵7000で固めました。これに対して平重衡らも兵を2手に分けて木津方面より侵攻しましたが、大衆も木津川沿岸や奈良坂・般若寺などで抵抗を続けたため、平氏軍が有利でしたが決着が付きませんでした。1月15日、平氏軍は奈良坂と般若寺を占拠して本陣を般若寺内に移しました。その夜、平重衡が陣中にて灯りを求めたところ、配下が火攻めの命令と勘違いして周囲の民家に火を放ちました。それが折からの強風に煽られて大火災を招きました。しかし、僧坊等を焼き払うのは当初からの計画でした。これによって奈良の主要部を巻き込む大火災が発生、興福寺・東大寺などの有力な寺院が焼け落ちて多数の僧侶や避難していた住民など、数千人が焼死しました。特に東大寺は金堂(大仏殿)など主要建築物の殆どを失い、中心から離れた法華堂と二月堂・転害門・正倉院以外は全て灰燼に帰するなどの大打撃を蒙りました。興福寺でも三基の塔の他、金堂・講堂・北円堂・南円堂など38の施設が焼かれました。平重衡は16日に帰京し、持ち帰られた49の首級は、ことごとく溝や堀に打ち捨てられました。清盛は直ちに東大寺や興福寺の荘園・所領を没収し、別当・僧綱らを更迭しました。これらの寺院の再建を認めない方針を示しました。ところが、その最中に親平氏政権派の高倉上皇が死去、続いて3月20日には平清盛が謎の高熱を発して死去しました。人々はこれを南都焼討の仏罰と噂しました。また、東国の源頼朝の動きも不穏との情報が入ってきたため、清盛に代わって政権を継承した平宗盛は、東大寺・興福寺以下の南都諸寺への処分を全て撤回しました。平氏政権側は後白河法皇が南都の被害状況を把握するため、使者(院司蔵人・藤原行隆)を派遣する事を容認しました。藤原行隆は同地で重源という僧侶と出会い、東大寺再建の必要性を説かれました。帰京した藤原行隆の報告を受けた後白河法皇は、重源を召して大勧進職に任命し、直ちに東大寺の再建に取り掛かる事になりました。また、興福寺も後に再興され、大和国守護の地位を獲得する事になります。

次に、享徳の乱:享徳の乱勃発です。「観応の擾乱」を受けて足利尊氏が設置した「鎌倉府」は、尊氏の次男・基氏の子孫が世襲した「鎌倉公方」を筆頭に、上杉氏が代々務めた「関東管領」が補佐する体制でした。次第に「鎌倉公方」は幕府と対立し、「上杉禅秀の乱」などで「関東管領」とも対立しました。これを打開するため、第6代将軍・足利義教は、前関東管領・上杉憲実を討伐しようと軍を起こした第4代鎌倉公方・足利持氏を逆に憲実と共に攻め滅ぼしました「永享の乱」。その後、足利義教が実子を次の鎌倉公方として下向させようとすると、結城氏朝などが足利持氏の遺児・春王丸、安王丸を奉じて挙兵する「結城合戦」が起こりました。しかし、これも鎮圧され、関東は幕府の強い影響の元で上杉氏の専制統治がなされました。しかし、「嘉吉の乱」により将軍・足利義教が赤松満祐に殺害されると、幕府は関東地方の安定を図るため、上杉氏の専制に対抗して鎌倉府の再興を願い出ていた越後守護・上杉房朝や関東地方の武士団の要求に応えて、足利持氏の子・永寿王丸(足利成氏)を立てる事を許したため、ここに「鎌倉府」は再興されました。再興後の「鎌倉府」では、足利持氏が滅ぼされる原因となった上杉憲実の息子・憲忠が父の反対を押し切って「関東管領」に就任し、足利成氏を補佐し始めました。しかし、足利成氏は持氏派であった結城氏、里見氏、小田氏等を重用し、上杉氏を遠ざけ始めました。「関東管領」を務めた山内上杉家の家宰・長尾景仲、扇谷上杉家の家宰・太田資清(太田道灌の父)らは、結城氏らの進出を阻止するため、1450年に足利成氏を攻めました「江の島合戦」。この合戦は間もなく和議が成立しましたが、これにより鎌倉公方と上杉氏は対立状態となりました。鎌倉を辞していた上杉憲忠は間もなく許されて鎌倉に戻りましたが、足利成氏により長尾景仲方の武士の所領が没収された事を契機に、足利成氏と長尾景仲ら上杉憲忠の家臣団との対立は所領問題に発展しました。1455年(享徳3年)1月15日、長尾景仲が鎌倉を不在としている留守の隙を狙った足利成氏は、上杉憲忠を屋敷に招いて謀殺しました。上杉憲忠は、足利成氏の命を受けた結城成朝の家臣、多賀谷氏家・高経兄弟によって謀殺されました。里見氏、武田氏等、足利成氏の側近が山内上杉邸を襲撃して、岩松持国が長尾実景・景住父子を殺害しました。在京していた上杉憲忠の弟・房顕は、兄の後を継いで関東管領に就任、従弟の越後守護・上杉房定と合流して上野・平井城に拠りました。こうして、「享徳の乱」が勃発しました。

その次に、お由羅騒動です。お由羅騒動は、薩摩藩で起こった御家騒動です。別名・「高崎崩れ」とも言います。藩主・島津斉興の後継者として側室の子・島津久光を藩主にしようとする一派と、嫡子・島津斉彬の藩主襲封を願う家臣の対立によって起こされました。お由羅の方は、江戸の町娘から島津斉興の側室となった人物です。彼女が息子・久光を藩主にしようと謀り、正室の子・斉彬の廃嫡を目論んだ事が事件の原因となりました。斉彬を嫌っていた斉興や家老・調所広郷らの重臣達が久光を後継者に望んでいました。それに対し、斉彬の家督相続を希望していた勢力は、倹約ばかりを強いる斉興へ反発を感じる若手下級武士や、斉彬を高く評価する江戸幕府でした。島津久光は、1818年に父・斉興のごり押しで種子島家の養子となりましたが、1825年に斉興の心変わりにより種子島家との養子縁組を解消し、島津一門家筆頭・重富島津家へ養子に入る事となりました。名族ですが家老止まりの種子島家に対し、重富家の養子となれば次期藩主の地位を狙える立場となりました。一方で、島津斉興は嫡子・斉彬に家督を譲りませんでした。これは、斉彬が既に将軍家へのお目見えも終了し、将軍・徳川家斉の弟で「御三卿」の一橋家当主・一橋斉敦の娘・英姫を正室としていた事もあり、廃嫡が不可能な事から斉彬に跡を継がせたくない為、藩主に居続けたのでした。その結果、斉彬は薩摩藩世子という立場のまま40歳となりました。当時の藩政は下級藩士出身ながら斉興に重用され、家老に上り詰めた調所広郷が強引な改革を進め、財政を改善しました。しかし、調所広郷は久光を支持していました。これに対し、国元の若手藩士を中心として斉興と調所広郷に対する不満が高まっていました。斉彬と若手藩士は「斉興隠居・調所失脚」で結束し、1848年に琉球での密貿易を老中・阿部正弘に密告するという、一歩間違えば藩改易に成りかねない手段に打って出ました。琉球での密貿易は1609年に藩祖・島津家久の「琉球出兵」で琉球が薩摩の勢力圏に入って以来、行われてきた公然の秘密で薩摩藩の主要な収入源の一つでした。調所広郷は密貿易に商人を関わらせ、利益を上げさせる事で藩の借金を棒引きにさせていました。調所広郷は阿部正弘から直接事情聴取を受けた直後の1849年1月13日、薩摩藩江戸芝藩邸で急死しました。これは、密貿易関与により島津斉興が隠居に追い込まれないよう一人で罪を被って、服毒自殺したものでした。これにより、調所広郷の排斥には成功しましたが斉興が隠居しなかった為、「斉彬襲封」の実現に失敗しました。一方、補佐役を失った島津斉興はさらに斉彬を恨み、是が非でも久光に跡を継がそうと思う様になりました。お由羅の方は、調所広郷の遺児を密かに側用人として召抱えて支援していました。その頃、斉彬は多数の子女を儲けていましたが、その多くが幼少の内に死亡し、生き残っていたのは女子3人だけでした。斉彬派の家臣はこれを「お由羅の方が斉彬とその子女を呪ったものである」と考え、お由羅の方及び久光を擁立する家臣を排除しようとしました。斉彬派は、江戸家老・島津壱岐や二階堂主計といった改革派に加えて藩内若手の期待を得たのに対し、久光派は島津久宝・久徳・伊集院平・吉利仲といった斉興側近の家老で固め、調所広郷が築いた安定を堅守しようと鋭く対立しました。1849年に斉彬の四男・篤之助が2歳で夭逝すると、斉彬・久光両派の対立は一触即発の状態となりました。特に血気盛んな若手の多い斉彬派による、久光派重臣襲撃の噂が絶えませんでした。その機先を制するように1850年1月15日、斉彬派の重鎮で町奉行兼物頭・近藤隆左衛門、同役・山田清安、船奉行・高崎五郎右衛門が久光、お由羅及びその取り巻きの重臣らの暗殺を謀議したとの咎で捕縛され、間もなく切腹を言い渡されました。同罪状で国分猪十郎、土持岱介、村田平内左衛門の3名が切腹を命ぜられ、引き続き斉彬派約50名に蟄居・遠島等の処分が下されました。騒動の前に病没していた二階堂主計は、士籍を剥奪されました。このように、斉彬派への徹底した弾圧が行なわれました。この禍は本国のみならず江戸屋敷まで及び、1850年6月6日に島津壱岐は更迭され隠居謹慎を命ぜられました。島津壱岐は、この2日後に切腹しました。赤山靱負、樺山喜平次、高木市助、野村喜八郎、吉井七之丞、中村嘉右衛門、仙波小太郎も切腹となりました。こうして残るは斉彬本人のみとなり、襲封は絶望的であるかに見えました。この時、西郷吉之助(後の隆盛)は、父・吉兵衛から介錯を務めた赤山靭負の切腹の様子を聞き、血衣を見せられると斉彬の襲封を強く願う様になりました。また、琉球館掛を勤めていた大久保利通の父・利世は罷免の上、鬼界島に遠島になりました。大久保利通も記録所書役助を免職、謹慎となり、非常に困窮しました。これを西郷吉之助が援けました。島津斉興の処分を逃れて脱藩に成功した4人の斉彬派藩士・藤井良節、木村仲之丞、竹内半右衛門、岩崎千吉は、福岡藩に逃げ込みました。藩主・黒田長溥は斉彬の年下の大叔父で、実家の騒動を見過ごせませんでした。黒田長溥は島津斉興が脱藩士を引き渡すよう強要しましたが拒絶、実弟の八戸藩主・南部信順と計って老中・阿部正弘に事態の収拾を訴えました。以前より斉彬を買っていた阿部正弘は、将軍・徳川家慶に斉興へ隠居を命ずるよう要請しました。徳川家慶は斉興に茶器を下し、暗に隠居を促しました(「隠居して茶などたしなむがよい」という意向によるものとみなされ、茶器や十徳を賜るのは隠退勧告とされました)。将軍命令とあっては斉興も拒絶できず、1851年3月4日、遂に斉興は42年勤めた藩主を隠居して家督を斉彬に譲りました。騒動の首謀者とされる、お由羅の方にはその後特に処分はなく、1866年に鹿児島で死去しました。

その次の次に、六士斥候事件です。六士斥候事件は、幕末に起きた「都城一番隊の悲劇」です。「王政復古の大号令」の直後、薩摩藩「都城一番隊」は伏見で警衛と斥候の任務についていました。1868年1月15日の夜、6人の「都城一番隊」の隊員が斥候中に「新選組」と遭遇しました。6人は談合の上、急いで本隊に報告する事にしました。「新選組」とは、すれ違っただけで終わりましたが背後から銃声が聞こえました。これが問題になり、逃げ帰ったと非難されました。発砲されて戦わなかったのは、卑怯未練であると謗りを受けました。その後、伏見から後方の東寺に配置換えとなりました。単なる配置替えでしたが、隊中では不名誉な更迭だと受け取り、6人の卑怯未練な行動の為だとされました。6人は責任をとる覚悟を決め、切腹嘆願書を提出しました。しかし、許可されなかったため、駐屯地である東寺薬師堂で自刃して果てました。以下が、六士です。坂元与八郎(18歳)、横山権助(23歳)、野辺納右衛門(23歳)、安藤惣兵衛(18歳)、大峰壮之助(18歳)、内藤将左衛門(20歳)

最後に、初代警視総監(大警視)・川路利良が東京警視庁を創設です。川路利良は、初代大警視(警視総監)を務め、欧米の近代警察制度を日本で初めて構築した「日本警察の父」と呼ばれる人物です。薩摩藩与力・川路利愛の長男として薩摩で生まれました。重野安繹に漢学を、坂口源七兵衛に真影流剣術を学びました。1864年、「禁門の変」で戦功を挙げ、西郷隆盛や大久保利通から高く評価されました。1867年、藩の御兵具一番小隊長となり、1868年の「戊辰戦争」の「鳥羽・伏見の戦い」に卒族大隊長として出征、「上野戦争」では彰義隊敗走の糸口をつくりました。その後、東北に転戦して「浅川の戦い」で敵弾により負傷しましたが、傷が癒えると「会津戦争」に参加しました。戦功により1869年、藩の兵器奉行に昇進しました。1871年、西郷隆盛の招きで東京府大属となり、1872年に邏卒総長に就任しました。司法省の西欧視察団8人の一員として、欧州各国の警察制度を視察して帰国後、警察制度の改革を建議しました。1874年、「警視庁」創設に伴って初代大警視(後の警視総監)に就任しました。ジョゼフ・フーシェに範をとったフランスの警察制度を参考に、日本の近代警察制度を確立し、消防も管轄しました。「明治六年政変」で西郷隆盛が下野すると、川路利良も西郷に従い帰郷するのではないかと噂されましたが、「私情においてはまことに忍びないが、国家行政の活動は一日として休むことは許されない。大義の前には私情を捨ててあくまで警察に献身する」と表明しました。内務卿となった大久保利通から厚い信任を受け、岩倉具視暗殺未遂事件「喰違の変」や「佐賀の乱」などが起こると、密偵を用いて不平士族の動向を探るなどの役目も果たしました。「西南戦争」が起こる直前に、西郷や不平士族の動向を帰省を口実に密偵を現地に送り込んで、内偵と西郷側の内部分裂を図りました。1877年1月、政府が鹿児島の武器火薬を大阪へ移動を開始した事に激昂した西郷の私学校生徒らが暴動を起こし、これを発端に「西南戦争」が勃発しました。2月に、西郷軍は川路利良が送り込んでいた密偵全員を捕えて拷問に近い取り調べを加えました。そして、川路利良が西郷隆盛を暗殺するよう指示したという「自白書」が取られました。そのため、川路利良は不平士族の間では大久保利通と共に憎悪の対象とされました。開戦後、川路利良は陸軍少将を兼任しました。警視隊で組織された別働第三旅団の長として西郷軍と戦い、九州を転戦しました。激戦となった3月の「田原坂の戦い」では、警視隊から選抜された「抜刀隊」が活躍して西郷軍を退けました。5月には「大口攻略戦」に参加した後、6月には宮之城で激戦の末に西郷軍を退けて進軍しますがその後、旅団長職を免じられて東京へ戻りました。終戦後の1878年3月、黒田清隆の妻が病死した際、黒田清隆が酒に酔って妻を殺したとの噂が流れたため、川路利良が墓を開けて病死である事を確認しました。この事が、川路利良も薩摩出身である事から黒田清隆をかばったという見方をされ、5月に発生する川路利良の庇護者・大久保利通の暗殺「紀尾井坂の変」の遠因になったと言われています。1879年1月、再び欧州の警察を視察に行きました。しかし、船中で病を得てパリに到着後は病床に臥してしまいます。咳や痰、時には吐血の症状も見られ、鮫島尚信駐仏公使の斡旋で現地の医師の治療を受け、転地療養も行いましたが病状は良くなりませんでした。8月24日、郵船「ヤンセー号」に搭乗し、10月8日に帰国しました。しかし、東京に帰着すると病状は悪化し、10月13日に死去しました。享年46でした。墓所は青山霊園です。

今日の誕生日:足利義澄(室町幕府第11代将軍)、前田利家、松平定信、箕作秋坪、箕作佳吉、藤原釜足、マーティン・ルーサー・キング、河野洋平、コシノヒロコ、冨士眞奈美、樹木希林、仙谷由人、森田童子、藤村美樹(元キャンディーズ)、川三番地、田原成貴、石原良純、清水香織、朱孝天(F4)、吉岡里帆、加藤美南(元NGT48)

今日の記念日:小正月、上元、警視庁創立の日、いちごの日、半襟の日、フードドライブの日、ウィキペディアの日

今日の「今日訓」:本日は、「小正月」です。1月1日の「大正月」に対し、1月15日を中心にした数日を言います。豊作祈願などの農業に関連した行事をしたり、「なまはげ」などの行事を行って病気や厄災を払う地方もあります。1874年1月15日に東京警視庁(現在の警視庁)が創設された事で「警視庁創立の日」、2001年に百科事典ヌーペディアに関連し、wikipedia.comにおいてウィキペディアが立ち上げられた。「いい(1)いち(1)ご(5)」の語呂合わせで「いちごの日」、襟を正す正月であり、この日がかつて「成人の日」であった事から「半襟の日」、「い(1)い(1)ごはん(5)」の語呂合わせで「フードドライブの日」となりました。
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