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2021年10月01日07:18

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18970116 NO4912 慶運宮移御遷延の件

18970116 NO4912 慶運宮移御遷延の件
한국사데이터베이스 (history.go.kr)
011_0050_0010 駐韓日本公使館記録 11巻 五. 機密本省往信 一•二 (1) 慶運宮移御遷延の件
文書題目 (1) 慶運宮移御遷延の件
文書番号 機密第二号
発信日 明治三十年一月十六日 ( 1897年 01月 16日 )
発信者 加藤 臨時代理公使 (*特命全権公使・加藤増雄)
受信者 外務大臣 伯爵 大隈重信

(1) 慶運宮移御遷延の件
機密第二号
昨年末中、「国王は慶運宮(キョンウングン *現在の徳寿宮)に還御するだろう」との説はやや信じられるかのごとく唱道されていた。なぜかというと、
慶運官の修繕は日夜工事を急いでいるため十二月初旬にはほぼ竣工と告げていた事、
露国士官訓練のもとにある親衛隊は八十名が慶雲宮(*慶運宮か)の守衛に配置されていた事、
出入の門鑑(*許可証)が決められていた事、
など諸般の準備が着々と進められていたことと、またこれまで還御説に固執していた金炳始(キムビョンシ)まで議政の任に就くことになったので(十二月二十七日)、朝野の何人も還御の実行を疑わないようになっていた。
ところが実際はそうではなく、結局歲末も空しく過ぎ新年に及んでも一向に移御の沙汰がないだけでなく、あるいは全く消滅に帰したのではないかと疑わせるに至った。
こうして議政・金炳始は就任から間もないのに辞職の念が頻りだ、と伝えられ、また還御の主動者とも言うべき閔泳煥(ミンヨンファン)なども(本月十日依願免 本官)露公使との間が面白くないと伝わっているので、一般の視線は早くも露国派(金鴻陸-キムホンユク-一派)に注目するようになった。
そもそも露国派が還御に満足できないのは一朝一夕の理由からではなく、彼らは国王還御の暁においては王寵が衰え、随ってその地位を維持することができないことを恐れると同時に、国王の性情を考えなければならなかった。
国王は一定の見識がなく、意思が極めて動きやすい御性質であるので、ひとたび露館を去ることになれば順逆はたちまちところを異にし、今日の寵臣であるものもまたどのような逆境に坐すことになるかもまだ知ることはできない。(このような事例はこれまでにも少なくない)。
そこで彼らは還御派の企みを摘発して露使に讒言(ざんげん)し、露使と協力して国王を引き留めることは一生涯をかけてなすべき事と考えているようだ。
また露使から論じても、露国派勢力の消長は直接に自家の勢力に影響することは必然の勢いであるので、露使が国王の還御を好まないと同時に、露国派を助けて還御派に反抗することはこれまた当然の事であろう。
顧みて還御派、即ち閔泳煥一派の意見はどうかと言うと、国王が露館にあって朝夕露使と国政を諮議するような日にあっては、国内では国民の感情を害して人心が日に日に離れ、国際上は列国均一の交際を保つことができないことを思い、何とかして国王を勧誘して一先ず慶運宮に還御させ露使の束縛を去らせようとするところにあるので、両者の衝突は到底避けることは出来ないのである。
しかしながら表面から論じれば、還御の事はもとより露使の賛同する所であるだろう。また露国派においてこれを拒否する理由は見つけられない。そうだとすれば彼らは裏面において先ず国王が平素信じておられる占い師(李裕寅の一派)を呼び、これと結托して還御の日数に差しさわりを挟んで国王の疑心を深からしめ、または種々の手段を設けて国王を驚かせ騒がせるなど(一説に、日本兵二千が釜山に上陸し服を変じて四散、どこへ行ったかわからないと伝えたような話)一旦高まっていた還御の念をついにまた逡巡(*ためらうこと)阻喪(*挫けさせること)にさせるに至らしめたもののようだ。
以上御参考までに報申に及びます。 敬具
明治三十年一月十六日
加藤 臨時代理公使
外務大臣 伯爵 大隈重信 殿










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