みなもと太郎氏のマンガ「風雲児たち」
1979年『月刊少年ワールド』に、翌1980年から『コミックトム』連載、
私が高校生の頃、合宿の宿泊先にたまたま置いてあった雑誌でこの第1話を読んだ。
幕末の坂本龍馬等の風雲児を描くのに、第1話は関ケ原の合戦からはじまる
壮大なスケールにミスマッチな安易なギャグタッチの人物描写で、内心バカにするも3ページ目で良い意味で裏切られる
関ヶ原の合戦の東西兵力数において
>西軍8万5千人、東軍7万8千人
・・・かどうかはわからない・・・
両軍の兵力には諸説あり、西軍8万5千、東軍10万2千、まったく逆の西軍10万2千、東軍8万5千という説もありいまだに定かでない
と語り、このマンガただものではないと引き込まれた。
西軍の総大将が石田三成ではなく毛利輝元だとも語られ作者はものすごく研究した上で書いてるなと感じた。
ただこの時はその場で読んでそれっきりになりすっかり忘れてしまうが
約7年後、私が大学を卒業する頃、新聞記事にこのマンガがとりあげられたのをたまたま見かけて思いだし
渋谷のマンガ専門店に単行本を買いに行き、むさぼるように読みつくした。
島津軍の敵中突破の描写は一生忘れない
>関ヶ原の合戦のフィナーレを飾るすさまじい戦闘が開始された。
なぜか世界戦史上でも類を見ない真正面への退却である。
島津軍1800対東軍10万・・・
作品では関ヶ原の合戦で西軍側につき敗れ落ちていった毛利(長州)島津(薩摩)長曾我部(土佐)の3藩が幕末の原動力になったと描かれている。
(ちなみに江戸幕府ができた直後、諸大名に朝廷のある京都への出入りを禁止させた中36万石に削減された毛利家だけが過去の朝廷への献金を理由に例外を認められ、これが幕末の長州が朝廷と結託する布石になる伏線も描かれている)
江戸幕府開設後は大坂の陣等はダイジェスト的な描写にとどまり
会津藩の開祖、保科正之がメインで物語はすすむ。
1657年、明暦の大火と呼ばれる大火事で江戸の町は大被害を出し、江戸城も天守閣をはじめ多くの建物が消失
保科正之は江戸と駿府の米蔵を独断で開放し被災者に分け与え救済に全力をつくし、江戸城の再建は後回しとなり結局天守閣は再建されなかった。
(なので暴れん坊将軍や遠山の金さんなどの時代劇で江戸城の天守閣がうつるのは間違っている)
みなもと太郎氏は「平時もくもくと地味に政治をおこなってた保科正之はこの時だけ独裁者になっている」と書いていた。
その後は元禄時代と享保の改革をすっ飛ばし、田沼時代の「解体新書」の翻訳にたずさわった前野良沢、杉田玄白、中川順庵らや、平賀源内等が描かれる
時の老中、田沼意次といえばワイロ政治家の代名詞のような、後任の松平定信に良いイメージがあったがこのマンガで印象は逆転した。
そう言えば土用の丑の日にウナギを食べるのは何故か?というのもこのマンガで知った。
他にも林子平、大黒屋光太夫、最上徳内、渡辺崋山、高野長英、シーボルト等多くの人物の半生が魅力的に描かれずっと読み続けていたのだが、20年くらい前に幕末編に入る頃から読まなくなってしまった。
ただその後も世間で大きな事件が起こるとこのマンガの一場面を思いだすことがあった。
東日本大震災の時には江戸城再建を後回しにし独裁者となって被災者の救済を指揮した保科正之を
リーマンショックでの突然の大不況で大掛かりな財政出動をしようとした麻生内閣が倒れ政権交代が起こった時は、田沼意次が失脚し松平定信が政治の実権を握ったことを思いだした。
作者のみなもと太郎氏が心不全で死去というニュースを見た。
昨今のコロナ過にどういう思いを持っていられたのか?
調べてみたくなった。
「風雲児たち」も読み返してご冥福をお祈りしたい。
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=86&from=diary&id=6636190
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