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2021年05月19日13:54

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追悼番組を見て感じたこと2題

(1)
私生活を一切明かさないということを徹底していた人で、「人前では食事もしなかった」という話なども報じられています。渥美清なんかも、私生活を一切明かさなかった人でしたが、こういうのが昭和の俳優のスタイルなんでしょう。

とはいえ、現在の感覚から見ると、隔世の感を感じてしまうのも確か。

例えば、現在の韓国のアイドルなどは、自室(ベッドルーム)からスマホでLIVE配信……なんてことが当たり前になっているし、「ちょっと待ってて」などと言って、カメラの前から居なくなってしまい、誰もいない部屋が1分以上垂れ流し……なんてこともあります。
チャットでファンから「○○くんを呼んできて」と言われて呼びに行って、「もう寝ていた。起こしても起きない」……なんて場面を見たこともあります。

どちらが正しいか――なんてことは、簡単に答えが出せるような問題じゃないし、今となっては昭和スタイルはほぼ不可能です。ボク自身も、韓国の「あまりにもオープンな」スタイルに、面白さや可能性(と同時に一抹の危うさ)を感じているのが実情です。

「喜劇は、やるのも観るのも好きじゃないが、喜劇の方が視聴率が取れるから、そういう話がたくさん来る」と発言している映像が流されていました。

日常とか現実とか本当の自分とは、まったく別の虚構を作り出す――というのが昭和の俳優の美意識なんだと思いますが、そういう感覚というのは、おそらく映画(あるいは映画の時代)から生まれたものなんじゃないかと思います。

テレビというのは嘘をつきづらいメディアだと思いますし、インターネットはさらにそうです。映画の時代では、フィルムは貴重品ですし、とりあえずカメラを回しておく、なんてことは不可能でしたが、現在では、スマホが1台あれば、ライティングなどの機材がなくても、全世界にLIVE配信ができてしまいます。

芸能人でも政治家でも、虚構のキャラクターを演じるのは難しくなっています。菅首相を見れるたびに、テレビ時代・ネット時代の首相には向かないな、と思ってしまいますから。(笑)

(2)
上に書いたこととは矛盾してしまいますが、田村正和は、映画や舞台よりもテレビドラマの仕事にこだわりを持っていた人でもありました。だからなのか、彼の作品の思い出は、自分の家族の思い出と重なります。(当たり前のことですが、映画や舞台の場合は、家族と一緒に観るというケースはほとんどない)

「古畑任三郎」の第1シリーズは1994年ですが、当時のボクはドラマを観る習慣がなくて、亡くなった母親が「このドラマ、面白いのよ」と言って観ている姿を見て、はじめてそのドラマの存在を知ったことを思い出します。「パパはニュースキャスター」(1987年)なども、自分から率先して観たとは考えられないので、母親経由で見始めたのかもしれないです。

田村正和がテレビドラマにこだわった理由はわかりませんが、家族で一緒にテレビを見るという習慣も、時代遅れになってしまうのかもしれない――なんてことを、テレビの追悼特集を見ながら考えてしまいました。

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田村正和さん死去「十分、やり終えた」コミカル役も輝いた不世出の二枚目
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=8&from=diary&id=6522646
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