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2021年02月16日06:03

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気づかなかったあの頃

一昨夜の夢見はまたも会社員時代の夢だった。
刑務所施設のような古いコンクリの建屋の一角に会社支店の事務所があり、元マイミクのS氏とそこでなにやら仕事の打ち合わせをしていた。するとS氏が施設内のどこかで咲いているあさがおを取ってこいと言い出した。そこで粗忽者のT副部長にそのことを相談してみると、Tさん大雨の外に飛び出していきなりデタラメにダンスを踊り出した。

それ見てから施設内を周遊すると、一角の電気設備施設の脇に咲くあさがおの群生を見つけて安堵した。構内の設備担当者たちから了解を得て咲いているあさがおをもらい受ける了解を得てさらに安堵したところで目が覚めた。

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かの会社を去って15年。支店を離れて20年以上経つ。まだまだ会社の夢を見るんだろうね。あさがおは何の予兆であろうか。あさがおの花言葉は「愛情」と「結束」とあった。わが家のことであろう。

数日前の夢見もよく覚えておりそれもまた会社支店時代の営業員の時のことである。入社数年目で市内中央エリアの顧客を担当したなかに桜木町にある防災機器販売会社のL社に入社したてのOLでFさんという女の子がいた。まつ毛が長くて一見ケバそうながらもの静かできれいな子であった。僕より2〜3歳年下であったろう。

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お互い若い当時のままで夢中に登場し、彼女がなにやら僕に言いたげな表情をしながら口をモゴモゴさせて言い出せないでいた。そうして結局彼女の言いたいことがわからぬままに目が覚めたのであった。

これは営業員時代そのもののことであり、彼女ははっきりものが言えない女性であった。そのために日ごろからバブルの名残りでもってかなり多忙であった僕は彼女のまごついた問い合わせに対してイライラしたことが多く、ある日彼女があまりにももごもごと言って要領を得ないものだからして僕が彼女を電話口で詰問したところ、あろうことか彼女電話の向こうでさめざめと泣きだしてしまったのであった。

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L社は車で飛ばせば十数分のところにあったので僕は仕事を放り出してそこに行き、彼女に会いすぐに謝罪をした。僕がすぐ来たことに彼女は驚きつつもにっこりして向こうからも泣いてすみませんでしたと謝られてしまい困惑した。同社の経理課長さんからはヨシ〇くん女の子を泣かしちゃダメだよとからかわれたものだった。

その彼女はよく僕のことを訊いてきたものだった。彼女はいるか実家はどこか好きな食べ物は何か趣味はなにかなど仕事以外のことをよく訊かれたものだった。そも商用でその会社に来ていたのであるからして僕は小さな彼女の小さな話には適当に相づちを打ってお茶を濁したものだった。ちょっとつっけんどんであったかもしれない。

そのうち社内で担当替えがあり僕は中央エリアからよそのエリアに担当替えになりL社とはおさらばになった。なので彼女と会い話すこともなくなった。
であるため担当が変わったにもかかわらず彼女は僕宛てに商用のファクスをたびたび送ってきたためちと困った。いまは担当じゃないからとやんわり彼女に断ったものだった。電話口の彼女は不承不承のようであった。そして彼女とはそれっきりになった。

あれから四半世紀経ったいまである。ふと思った。これは生涯でほとんどモテ期のなかった僕であったため、女性からのアプローチというものにうとかったのであったが、Fさんはひょっとして僕ともっと話がしたかったのではなかったか。踏み込んでいえば彼女はもしや僕のことが好きだったのではなかったか。そのことである。

そう思い返すと彼女のもじもじもごもごは彼女の生来の性格であったかもしれない上に僕への思いも重なってのことではなかったか。そう考えると彼女の往時のたたずまいが腑に落ちるのであった。僕が鈍感な三枚目であったということかもしれないと今頃になってわが身の不出来を思った。

当時はあのいまわしい先妻とつきあっていたのもあった。なので他の女性に気が向かなかったのは仕方ないことである。なれどあの目元の涼しく美しかったFさん。まさかなあ。こうなるともはやバカな男の妄想であるが、僕が気がついていればどうなっていたであろうか。むかしのことである。

実は最近になってああそういうことかと気がついたことがもうひとつある。学生の部活にいたひとう上の先輩のYさんのことだ。

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小柄でお調子者でよくギター抱えて部室では活舌よくしゃべっていた人だ。狂人のKさんとは特に気があってよく話していた。
この人それだけおしゃべりではあったものの肝心の部活動の落語はというとものすごく下手だった。間の取り方が悪いのとなぜか落語で話すと活舌が悪かった。

そのYさん三年生の部活天下に入る学年になった途端に退部してしまった。当時はなぜなのか理由がまったくわからなかった。

それとは別に僕はというと中学生の頃から落語をテープで録音してはそれを聴きつつまねばかりしていた時期もあったせいか一年生の時からけっこう落語が達者であったために上級生から褒められることが多かった。三年生で寄席で主任(とり)を務めた際にはOBたちからよくやったとねぎらわれて嬉しかったものだった。

そうしてつい最近悟った。Yさんは自身の落語の不得手に加え、ちょっと達者な後輩の僕が来たことにより部内での居心地が悪かったに相違なかったにちがいない、と。
当時はそのことにまったく気がつかなかった。そう。僕はなにかにつけて鈍感であったのだ。なれど当時はその鈍感力が助けになっていたと言える。

そんなふたつの気づかなかった過去である。これからもそんなことがあるのだろうか。数十年してから気がつく僕の鈍きことよ。まあそれも僕の個性と思い諦めるしかなかろう。そんなここしばらくのことであった。一曲。



昨日の徹子の部屋は太田裕美さんであった。

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もう66歳ながらいまなおかわいらしい人である。結婚して二児の母であり家事がお得意だとは知らなかった。
数年前に乳がんを患いながら復活したとあった。風貌に似合わず大酒のみだったところ、頑張って禁酒したとありへえと思った。旦那さんがお優しい人だそうで、夫婦で病を克服したとあった。一昨年で歌手生活45周年だそうです。ますますのご活躍を。
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