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2020年10月26日05:27

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10月26日

伊藤博文がハルピンで朝鮮の抗日運動家・安重根に暗殺される:明治42年のこの日。明治42年(1909年)10月26日、ロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフ(ココフツォフ)と満州・朝鮮問題について非公式に話し合うため訪れたハルビン駅で、大韓帝国の民族運動家・安重根によって射殺された。この時伊藤は「3発あたった。相手は誰だ」と叫んだという。安はロシア官憲にその場で捕縛された。伊藤は絶命までの約30分間に、側近らと幾つか会話を交わしたが、死の間際に、自分を撃ったのが朝鮮人だったことを知らされ、「俺を撃ったりして、馬鹿な奴だ」と呟いたといわれる。また、伊藤の孫にあたる伊藤満洲雄の話によれば「俺は駄目だ。誰か他にやられたか?」と聞き、森槐南も傷ついたと知って「森もやられたか…」と言ったのが、伊藤の最後の言葉だったという。享年69。11月4日に日比谷公園で国葬が営まれた。暗殺に関しては、安重根単独説のほかにも、異説が存在する。具体的には、暗殺時に伊藤の着用していたコートに残る弾痕から発砲位置を算出した結果、併合強硬派による謀殺説もある。当時伊藤に随行した室田義文首席随行員がおよそ30年後に話した舞台の真相によると、彼の肉に埋まっていた弾丸が安重根のブローニング7連発拳銃用のものではなくフランス騎馬隊カービン銃用であり、また弾丸があけた穴の向きが下向きであることがおかしく、安重根からならば上向きになるはずであり、彼への命中弾は駅の上の食堂あたりからではなかろうか、ということである。しかし室田は事件当時は混乱していたためか、安重根の裁判では「数発爆竹の如き音を聞きたるも狙撃者ありしことを気付かず、少時して洋服を着たる一人男が、露国軍隊の間より身を出して、拳銃を以て自分の方に向ひ発射するを認め、初めて狙撃者あることを知り(中略)、狙撃当時の模様は是以外に知らず」、このように証言した。また別の例では、暗殺現場を間近で目撃したココツェフ蔵相が当日直ちに駐日大使に宛てて電報を次のように打っている。「... 陰謀は明らかに組織的なものだった。昨晩、蔡家溝駅で我が警察はブローニング銃を持った3人の疑わしい朝鮮人たちをすでに逮捕していたという ...」。暗殺の報道は暗号電報を受けた五十嵐秀助電信技師が、全文を受ける前に金子堅太郎に電話した。彼は直ちに大磯の別荘に急ぎ梅子夫人に見舞いの言葉を述べたが、夫人は涙一つ落とさなかった。「伊藤は予てから自分は畳の上では満足な死にかたはできぬ、敷居をまたいだときから、是が永久の別れになると思ってくれ」といっていたという。
安 重根(アン・ジュングン、1879年9月2日〜1910年3月26日)は、大韓帝国時代の朝鮮の独立運動家で、前韓国統監の伊藤博文を、1909年10月26日に北満州のロシアが権益を持つハルビン駅構内で襲撃し、殺害した暗殺者である。ロシア官憲に逮捕されて日本の関東都督府に引き渡され、1910年3月26日に処刑された。(出典:今日は何の日、Wikipedia)画像は、安重根。
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