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2020年12月22日10:42

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どう書いてもよい、からどう書くか

はじめに言葉ありきというけれど、詩や小説、絵画もそうだが、どう書(描)いてもいいわけで、制限などはないのだが、たとえば基底材などに規定されていることや使用言語によって実はそれなりの制約は受けている。例えば描くという場合には必ず何に?という材は問われる。紙、壁、物、像になど。空にということも可能かもしれない。言語ならこの日本語で書かれた文章も横書きなら左から右へ、縦書きなら上から下へ言葉を連ねていく。こういった制限はおのずとある。

とは言え、どう書(描)いてもよいというのはある。そこでどういった感じで書き出すかを決めなければいけない。サンプルはもう世の中にはたくさんある。有名無名のサンプルをまずは参考にしてビビッドなものを自分なりにチョイスして、身の回りに置いてためつすがめつ眺めてまずは研究してみればいいと思う。もちろんそれの真似をしてはじめてもよいし、真似が恥ずかしければ少しずらして始めているとよいだろう。こうやって人は創造のとば口に立つに違いない。

ではどういう感じのものを作りたいかがそれなりのイメージができたら、今度は内容をどうするかという感じになるだろう。身近な私小説的なものから汲み上げるか、三人称で物語的にいくかでひとつ分かれ道があるだろう。リアリズムかフィクションかといってもよいかもしれない。もちろんそのどちらも書かれたり描かれた時点ですでにフィクションなのだが。見たり読んだりした場合の効果としてどういう仕立てでいくのかという話だ。

そしてだれもがわかっていることだが、描くにしても書くにしてもそこには厳然と歴史がある。無視して書(描)く手はあるが、無視しても影響は受けるし自然に入り込んでくる。それが私たちがある時代を生きているという意味だろう。それならどうするか。

さきほどのビビッドだと思われる先行者のものから抽出して、歴史的な批評を経て、今自分がどういう書(描)き方をするかを決めなければいけないだろう。その得心の上で自分の創作スタンスというのは決まってくる。

閑話休題ー先日M1を見ていた。M1を毎年見ているわけではないが、たまたま知り得たときには見ている。いつも思うのでは、スタイルの勝利ということだ。スタイルを持っていることは大事だ。わかりやすい。こういう形式の漫才をやろうとしているんだなとまずは得心させる。決勝まで残ったら、その徹底を図る。これで勝負はほとんど決まっている。もちろんコンテストだから、こういう理屈になる。コンテストには強い個性を表すわかりやすい選択されている形式スタイルが見えること、そしてそれの徹底があること。またそこに込める何かメッセージや内容がそれなりの共感(笑いや感心)があることではないかと思う。

さて創作の話に戻す。私は最近自分なりに昨年1昨年書き溜めた詩を自分なりにまとめてみた。ここ10年くらい書きたかったのはこういうことなんだなとあまり変わらない自分を映し出している詩編を並べながら思うことだった。これはもういいも悪いもないなと。おそらくフィクション性を高めて書いていればここまでは思わなかったかもしれない。しかし私小説的な主題にこだわって書いたためにそういう感慨に囚われるのだと。

その後今年出された詩集を買い込んであれこれと読むことを始めた。いろいろな表情があってはっきりいって驚いた。私の感心の外にある書き方であるものも多々あってそれらも有名な詩人の名のつく賞を受賞しているとのことだった。まだこれから賞に入ってくる詩集もあるのだろう。これはという詩集もあった。この百花をどうみるか。ただ詩の愛好家ならどれもこれもいいねといいと思うが、自ら詩を書こうとするとなればそういうわけにもいかない。そこには批評が入る。これで何かしたいのか、何か言ったことになるのか。いや、そんなものなどは必要ではなくフィクションの中でひねられた言葉の中で泳いでいただければそれでよい、そういう考えもあるだろう。

だらだらと書きてきたこういったことを今私は考えているのだと思う。

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