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2020年05月03日09:45

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2020-5-3 日曜日 桜 墓参り

おじいさんは二人いるはずだけど、父方の祖父は知らない。
母方の祖父はいつも慈愛に満ちていて、寡黙だった。母方のおばあちゃんは元気な人だった。社交的で声も大きかった。都会の感じの母方の親戚のファミリーだった。
でもそのおばあちゃんが長男の家に引き取られて住んでいた晩年は、やはり田舎の生活が恋しかったことであろう・・
僕、即ち自分はそういった、心の機微がわからない人だったと思う。
老いた人の気持ちになった感じや考えることがほとんど
興味がなかったのであろうから・・

今になると僕は自分がいかに愚かものか・・
強烈な反省の気持ちと後悔の念に苛まれてならない。

病なども体験して初めてわかったのだ。

生きているうちに人は人と親しくするのが豊かな人生と思う!
時が過ぎて、それに気がついた時には、もう手遅れ。
誰もいなくなっていた。

優しい言葉一つかけることなく
自分のことばかりやっていた。
未来を推測する能力にも極めて劣っていたのであろう・・

今日ここで書こうと思ったのは父方の一族のことである。
僕は祖父を知らないのだ。

生まれた時から、いたのかどうかも知らない。
写真すら見たことない。

本家の仏壇にも写真がない。
いろいろあったのであろうと思うしかない。
かなりの僕の偏見かもだが、
おおよそはその家の女性連の権力者が、気にそぐわない人の存在は、消したいのであろう・・か?
嫌なもので、大抵は家を仕切る女性の裏の実力者が決めて実行していくのであろう・・
僕が一番悩む、女性嫌いの所以である。
これを生命体への嫌悪&神への対決姿勢の僕の根拠である!


寡黙な父であるから・・論理的にも感情的にもあまり語らなかった。
ただ、一族の話しは聞けば時々はした。

我が父の一族の長老は応仁の乱を知っている。
名を小山蘭之助基光という。
九代将軍の足利義尚勾の戦いの後、花の御所から一族郎党引き連れて、
逃げて、近江の館を脱出。

近江小山家の代々の女系の一族には、佐々木・六角氏がいた。
勾の戦いとは、美青年の若き将軍が、その六角氏を征伐しようとして、
失敗して、近江の陣で死去した戦いである。
六角氏は甲賀・伊賀忍者が配下にいる守護大名である。
基光は板挟みであろうか・・

基光は逃げたのだ。
先陣からでは無い

すべてが終わって、京を捨てたのだ・・
勿論、根回しは抜群にしたであろう。

それにしても女系の凄さには、驚嘆である。

織田信長は天正10年、甲斐国に進軍した。
その時、憎き六角氏の頭領が恵林寺に匿われている事を知っていた。

快川和尚が、守って引き渡さなかった。
新党滅却すれば火もまた涼し!』で有名であるその時の記録。


信長はそのだいぶ前に、近江の観音寺城をも滅ぼしている。
抜群に偉大な城である。
関連の城である名古屋の三井城の落城から、
近江の三井氏は伊勢にこれもまた逃避行である。

これが後々に財を成した越後屋・三井である。

甲斐の長老は、風雅を愛する方を優先していた・・

武田氏に取って代わろうなどとの、妄想は描かない。
大名になる道は選ばずに、息子たちを、やむを得ず武田氏の下に預けて置いた。
だから、せいぜいが何とかの守という小さな将軍が良いところだろう。

今その末裔が、本家のある土地にたくさん住んでいる。

ちなみに先祖の墓は地元では大墓場と言われていて、一番良い場所に1500年以後の
先祖達の遺骨がすべて眠っている。

その背後には諏訪神社が建っている。
土地は寄進したのであろう、ことはいうまでも無い名誉なのだろう・・

  Kaze 001
1489年秋 甲斐の国、源氏の源・新羅三郎義光の落ち着き先の清光寺のあたりに館を構えた。

名を邊見冠者と称した。
邊見氏は武田氏と同格。
信玄のお祖父さんの時代である。
地方では国衆が群雄割拠していた時代である・・

基光は京での殺し合いの生活が嫌になって京を脱したのであろう。
室町幕府の幕臣ゆえに、地方では顔が効いていたのであろう・・
知り合いもいたのであろう。


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