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2020年01月01日01:13

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1月1日の日記

今日の出来事:紀元前153年−共和政ローマで、年始の日と定められる、紀元前45年−ユリウス暦が使われはじめる、1589年−天草国人一揆、1868年−天満屋事件、1873年−日本で太陽暦を採用し、旧暦の明治5年12月2日の翌日が明治6年1月1日になる、1887年−勅令第51号「本初子午線經度計算方及標準時ノ件」により、東経135度の時刻を日本標準時とすることが定められる、1896年−芝山巌事件、1963年−日本初の連続テレビアニメ「鉄腕アトム」が放映開始、U.C.0080年−地球連邦政府とジオン公国との間に終戦協定が結ばれ、「一年戦争」が終結

今日は、共和政ローマで、年始の日と定められました。「共和政ローマ」は、紀元前509年の「王政」打倒から、紀元前27年の「帝政」の開始までの期間の「古代ローマ」です。ローマ暦は、「古代ローマ」で使用されていた暦法です。古代ギリシアの「太陰暦」を元にしてつくられた暦法です。紀元前753年、最初のローマ暦が古代ローマで採用されました。この暦法は、ローマを建国したとされる王・ロムルスの名をとり、「ロムルス暦」と呼ばれました。3月から始まり12月で終わります。1年の長さは304日で、12月30日と3月1日の間に、日付のない日が約61日間続きました。農耕暦でしたので、畑仕事のない季節に日付は必要なかったためです。紀元前713年、ローマ国王ヌマ・ポンピウスによって改暦が行われ、つけ加えられました。このときヌマは、日数が30日だった月の日数をすべて29日に変えました。これで、平年の1年の長さは355日になりました。2年に1度、2月の日数を23日に減じ、2月23日の翌日に27日間または28日間の閏月を挿入しました。この時期はまだ年始は3月1日でした。この暦法は、布告した王の名をとり「ヌマ暦」と呼ばれました。ほとんどの月の日数を29日と31日にしたのと、1年の長さを月の運行に合わせた354日にしなかったのは、ヌマの信仰が偶数を嫌ったからでした。紀元前153年1月1日に行われた改暦で、年の始まりが3月1日ではなく、1月1日に移りました。この時、月の順序と月名との間にずれが生じました。紀元前46年まで使われていた最終期の「ローマ暦」は、1年は12か月、355日でした。2年に1度、2月23日と2月24日の間に22日間または23日間の閏日を挿入しました。閏日の挿入は最高神祇官の職責でしたが、規則どおり閏日を入れませんでした。政治的な理由で、1年の長さを恣意的に操作するため、閏日を挿入したりしなかったりする事もありました。そのため、暦の上の日付と季節がまったく合致しなくなり、末期には90日のずれが生じました。このため、ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)は、紀元前46年に「ローマ暦」を廃し、翌紀元前45年から「ユリウス暦」を採用しました。カエサル(シーザー)は、ずれた90日分を補正するため、紀元前46年の日数を445日としました(355+90)。記録に残る限り、最も1年の日数が長い年はこの「ローマ暦」での紀元前46年です。カエサル(シーザー)はこの年を「最後の混乱の年」と呼びました。「ユリウス暦」は、地球が太陽の周りを回る周期を基にして作られた暦法で、「太陽暦」の一種です。ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)によって制定され、紀元前45年1月1日から実施されました。その後、暦法としての不備が指摘され、「グレゴリオ暦」に改暦されました。改暦では「ユリウス歴1582年10月4日(木曜日)」の翌日を、「グレゴリオ暦10月15日(金曜日)」と定めました。現行の「太陽暦」として世界各国で用いられ、「新暦」とも呼ばれています。平年には1年を365日としますが、400年間に97回の閏年を置き、その年を366日とする事により、400年間における1年の平均日数を、365日+97/400=365.2425日とする事が「グレゴリオ暦」の本質です。日本では明治5年(1872年)に採用され、明治5年12月2日の翌日を明治6年1月1日(グレゴリオ暦1873年1月1日)としました。

次に、天草国人一揆です。天草諸島の国人衆、天草氏・志岐氏・大矢野氏・栖本氏・上津浦氏の事を「天草五人衆」と呼ばれています。「天草五人衆」は、豊臣秀吉の「九州征伐」に際してこれに降り、肥後南部の領主に任じられた小西行長の元で所領を安堵されました。しかし、小西行長の宇土城の城普請の要求を、志岐氏をはじめとした「天草五人衆」は拒否し、1589年に天草種元、志岐鎮経、大矢野種基、栖本親高、上津浦種直などの五人衆全てが反乱を起こしました。これが「天草国人一揆」です。小西行長は志岐城を落とすため3000の兵で袋浦(現在の富岡湾)へ進軍しましたが、志岐鎮経は小西軍が上陸したところに夜襲を掛けて破りました。小西行長は加藤清正、有馬晴信、大村喜前に助勢を依頼しました。これにより総勢10000余を相手にする事になった志岐城は、連合軍に打ち破られました。志岐鎮経は、島津氏を頼って出水へ逃れました。天草種元は本渡城に籠城しましたが、加藤清正・小西行長勢によって攻め落とされました。木山惟久も客将として討死しました。加藤勢は高台になっている城後方および本丸を攻撃し、天草種元をはじめ城兵や家族をほぼ全滅させました。大矢野城城主・大矢野種基は、小西行長・加藤清正連合軍に攻め込まれて降伏しました。大矢野氏は、本領を没収された上で小西氏の家臣に組み込まれました。上津浦城城主・上津浦種直、栖本城城主・栖本親高も本領を没収された上で小西氏の家臣に組み込まれました。こうして、「天草五人衆」は滅亡あるいは服属の運命をたどりました。

その次に、天満屋事件です。天満屋事件は、坂本龍馬と中岡慎太郎の暗殺を紀州藩が「見廻組」に命じたと思った「海援隊」・「陸援隊」の残党16名が、京都油小路の旅籠「天満屋」を襲撃し、紀州藩士・三浦休太郎を襲って「新選組」と戦った事件です。海援隊士・陸奥陽之助(後の外務大臣・陸奥宗光)は、当時有力な佐幕論者であった紀州藩士・三浦休太郎が大垣藩士・井田五蔵らと共謀し、京都で不穏な動きをしている事と、坂本龍馬、中岡慎太郎の暗殺「近江屋事件」の黒幕が、「いろは丸沈没事件」の際に多額の弁償金を龍馬に支払わされた恨みを持つ紀州藩であるとの噂を聞きました。このため、紀州藩公用人・三浦休太郎を討つ事を海援隊士・陸援隊士らと計画しました。危険を感じた紀州藩は、会津藩を通して「新選組」に三浦休太郎の警護を依頼しました。「天満屋」で三浦休太郎の護衛に「新選組」の副長助勤・斎藤一、調役・大石鍬二郎、宮川信吉、中村小二郎、中条常八郎、梅戸勝之進、船津釜太郎の7名がつきました。1868年1月1日、陸奥陽之助と海援隊士・沢村惣之丞、陸援隊士・岩村精一郎ら総勢16名が、三浦休太郎と新選組隊士らが「天満屋」2階で酒宴を行っていたところを襲撃しました。出会い頭に十津川郷士の中井庄五郎が「三浦氏は其許か」というなり斬りつけ、三浦休太郎は頬頤を負傷しました。その後、両者は入り乱れて燈火を消し、暗闇での戦闘となりました。斎藤一は後から斬りかかられ、命を落としそうになりましたが、梅戸勝之進(平隊士)が斎藤一を守りました。 変を聞きつけた「新選組」、紀州藩が援助に向かいましたが、着いた頃には陸奥陽之助らは素早くその場を引き揚げていました。この事件で、襲撃側は中井庄五郎が死亡、竹中与三郎が重傷、竹野寅太が軽傷を負いました。一方の「新選組」は宮川信吉(近藤勇の甥)と舟津釜太郎が死亡、斎藤一を守った梅戸勝之進が重傷、負傷者3名を出しました。紀州藩では三浦休太郎が頬頤に傷を負い、三宅精一、関甚之助も軽傷を負いました。

その次の次に、勅令第51号「本初子午線經度計算方及標準時ノ件」により、日本標準時が定められるです。日本の標準時に関して初めて制定された法令は、勅令第51号「本初子午線経度計算方及標準時ノ件」です。この勅令では、グリニッジ天文台子午儀の中心を通る子午線を本初子午線(経度0度)とし、東西それぞれ180度で、東を正、西を負として表す事を定めた上、東経135度 (GMT+9:00) の時刻を日本の標準時「本邦一般ノ標準時」と規定しました。この日本の標準時に関する部分は、1888年1月1日から適用されました。その後、勅令第167号「標準時ニ関スル件」(1896年1月1日施行)が制定され、第1条で東経135度の標準時の呼称を「中央標準時」、第2条で東経120度 (GMT+8:00)の時刻を「西部標準時」とそれぞれ規定しました。「西部標準時」は八重山列島・宮古列島と日本統治下の台湾・澎湖諸島に適用されました。中央標準時と西部標準時との時差は1時間でした。この「二つの日本時間」は41年余り続きましたが、勅令第529号(1937年10月1日施行)という改正勅令により、「西部標準時」に関する条文が削除となり、再び日本の標準時は一つとなりました。これにより、「中央標準時」が日本の標準時の法令上の公式な名称とされました。かつては、兵庫県明石市を通る東経135度の子午線が地方平均太陽時と定義されていました。子午線上にある明石市立天文科学館では、日本標準時を刻む大きな時計が設置されています。1978年に設置された2代目は1995年の「阪神・淡路大震災」で破損し、停止しました。現在設置されている大時計は3代目で、服部セイコーからの寄贈です。

最後に、芝山巌事件です。「六氏先生」とは、日本統治時代の台湾に設立された小学校、芝山巌学堂(しざんがんがくどう)で抗日事件によって殺害された日本人教師6人の事です。1895年5月17日、「下関条約」によって台湾が日本に割譲され、5月21日から日本による統治が始まりました。文部省の学務部長心得だった伊沢修二は、初代台湾総督に就任した樺山資紀に「教育こそ最優先すべき」と教育の必要性を訴え、日本全国から集めた人材7名を連れて台湾へ渡り、台北北部の芝山巌恵済宮という道観の一部を借りて「芝山巌学堂」という小学校を設立しました。最初は生徒6人を集め、台湾総督府学務部長となった伊沢修二と教師7人の計8人で日本語を教えました。次第に周辺住人に受け入れられ、9月20日には生徒数が21人になり甲、乙、丙の3組に分けて授業を行いました。その頃、北白川宮能久親王が出征中の台南で薨去し、それに伴って伊沢修二と1人の教師・山田耕造は北白川宮能久親王の棺と共に日本本土に一時帰国しました。その伊沢修二の帰国中に事件は起こりました。1895年の暮れになると再び台北の治安が悪化し、日本の統治に反対する勢力による暴動が頻発しました。周辺住人は教師達に避難を勧めましたが、彼らは「死して余栄あり、実に死に甲斐あり」と教育に命を懸けている事を示し、芝山巌を去ろうとしませんでした。1896年1月1日、6人の教師と用務員・小林清吉が元旦の拝賀式に出席するために生徒を連れて船着場に行きましたが、前日からの抗日運動のゲリラ騒ぎで船が無かった為、生徒達を帰して芝山巌に戻りました。再び芝山巌を下山しようとした時、約100人の抗日ゲリラに遭遇しました。教師達はゲリラ達を説諭しましたが聞き入れられず、用務員の小林清吉を含む7人全員が惨殺されました。ゲリラ達は、日本人の首を取ったら賞金が貰えるとの流言から襲撃を掛けました。6人の首級と用務員を襲って殺害した上で着衣や所持品を奪い、更に芝山巌学堂の物品も略奪しました。この事件は、台湾にいた日本人を震撼させたのみならず、日本政府にも重要視されました。丁重に葬儀を行うと共に、台湾統治の強化が行われました。芝山巌学堂は、3ヶ月間の授業停止の後に再開されました。彼らの台湾の教育に賭ける犠牲精神は「芝山巌精神」と言われ、人々の間で語り継がれるようになりました。6人の教師「楫取道明(38歳)、関口長太郎(37歳)、中島長吉(25歳)、桂金太郎(27歳)、井原順之助(23歳)、平井数馬(17歳)」は、「六氏先生」と呼ばれました。この中の楫取道明とは、吉田松陰の妹・寿と初代群馬県令・楫取素彦の次男・久米次郎でした。この「芝山巌精神」は当時の台湾教育者に多くの影響を与え、統治直後は総人口の0.5〜0.6%だった台湾の学齢児童の就学率は1943年には70%になりました。終戦時には識字率が92.5%になり、後に台湾が経済発展をする基礎となりました。1930年には「芝山巌神社」が創建され「六氏先生」をはじめ、台湾教育に殉じた人々が1933年までに330人祀られました。境内には「六氏先生」を合葬する墓があり、社殿の前には「六氏先生」を追悼して伊藤博文の揮毫による「学務官僚遭難之碑」(1896年7月1日建立)が建てられました。毎年2月1日には慰霊祭が執り行われ、芝山巌は「台湾教育の聖地」と称されました。終戦後、「中国国民党」によって芝山巌神社は破壊され、本殿跡には国民党軍統局副局長だった戴笠を記念する「雨農閲覧室」が建てられました。しかし、李登輝総統の下で台湾の民主化の動きが進むと、芝山巌学堂が開かれて100年が経った1995年1月1日に、芝山巌学堂の後身である台北市立士林国民小学の卒業生によって教育に命をかけた「六氏先生の墓」が再建され、2000年には「学務官僚遭難之碑」も復元されました。

今日の誕生日:後西天皇(第111代天皇)、歌川国芳、洪秀全、三浦梧楼、杉山元、鳩山一郎(第52〜54代内閣総理大臣)、中島知久平、杉原千畝、人見絹枝、J・D・サリンジャー、田端義夫、細川隆一郎、早乙女貢、長門勇、竜鉄也、水野久美、加藤一二三、尾崎紀世彦、香山美子、沢田亜矢子、夢枕獏、高橋源一郎、村上“ポンタ”秀一(元赤い鳥)、役所広司、大友康平(HOUND DOG)、ポップコーン正一、ポップコーン正二、ジミー大西、増田明美、土家歩、北勝鬨準人、尾田栄一郎、庄司智春(品川庄司)、大懸郁久美、言承旭(F4)、堂本光一(Kinki Kids)、箕輪はるか(ハリセンボン)、小林恵美、浜田翔子、ソンミン(SUPER JUNIOR)、ジュンス(元東方神起)、21エモン、アレキサンドリア・ミート、浦辺反次、御堂春、流川楓

今日の記念日:元日、正月(初詣、若水・若潮迎え、初日の出、御節料理、お年玉、年賀状)、世界平和の日、パブリックドメインの日

今日の「今日訓」:あけましておめでとうございます。
2020年、「子」の年です。
今月は「睦月」です。「睦月」は親類知人が互いに往来し、仲睦まじくする月という意味です。
本日は「元日」で、年の最初の日です。「元日」は、日本では「国民の祝日に関する法律(祝日法)」の第2条により、年のはじめを祝う日として国民の祝日とされています。日本ではかつて皇室行事である「四方拝」にちなみ、「四方節」と呼ばれて祝祭日の中の四大節(紀元節、四方節、天長節、明治節)の一つとされてきました。1948年公布・施行の「国民の祝日に関する法律(祝日法)」により、「四方節」に代わって「年のはじめを祝う」ことを趣旨とする国民の祝日となりました。「元旦」とは「初日の出」の事で、「元日」の朝の事を特に「元旦」と呼びます。なお、「旦」の字の下線は地平線を表しています。「正月」は、各暦の年初の事です。本来は旧暦1月の別名で、改暦後は新暦1月を意味します。文化的には旧年が無事に終わった事と新年を祝う行事です。正月飾りをし、正月行事を行ったり、正月料理を食べて盛大に祝います。日本各地では、「元日」の1月1日から1月3日まで(三が日)、または「松の内」までを特に「お正月」と呼んでこれを尊重し、毎年この時期独特の行事や慣習が執り行われます。ローマ教皇パウロ6世が「ベトナム戦争」中の1968年、平和のために特別な祈りを捧げるよう世界のカトリック教会に呼びかけた事で「世界平和の日」、この日付けで死後50年経った著作物が「パブリックドメイン(知的財産権の消滅)」になる事で「パブリックドメインの日」となりました。
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