清水気功教材を見返していて光のイメージの説明で、
サイババとの質疑応答の話があるが、サイババを知らない。
サイババは聖人ではなく、神の化身であり、
信者の欲しい物を空中から取り出す
奇跡を名刺代わりにしていたらしい。
清水気功を学び、山崎弁栄聖人を知らなかったら、
パフォーマンスの派手さだけでインチキだと思ったと思う。
肥田春充は新興宗教、霊術の奇跡のトリックを解説しており、
盲目的信仰に警鐘を鳴らしていた。
聖書の訂正さえ考えていた春充的には、
大本教や天理教などは邪教だったのだろう。
教団運営のための上納金制度には、
やはり下部組織の貧困という弊害があるからね。
武禅を極めた春充も最晩年には暗黒面に落ちたが、
弁栄聖人と邂逅していたらどうだっただろうか?
身体を極めた春充、合気を極めた盛平、心を極めた弁栄
心技体を代表する巨人が同時代に生きながら邂逅が
なかったのが惜しまれる。
山崎弁栄聖人の思想を知ってからサイババ本群を読むと、
一神教的汎神教、全宗教、文化、科学を包括する
難解な光明主義の解説本と錯覚するほど思想が類似している。
特に『ナーマスマラナ 神の名前の不思議な力』は、
弥陀をオオミオヤ(大御親)と呼称する光明主義に
共通する全宗教を包み込む思想・愛で満たされている。
出家していない信者は教祖、教団より、
家族、社会活動が優先されるべきであり、
自前の信仰さえ捨てる必要がないという思想には共感する。
推薦図書:『真実のサイババ』
努力、才能、信仰心が免除される不遜の極みとも言える清水気功。
すべてはひとつのEgでしかなく、神仏さえEgに過ぎないという立場に立つ。
効果が有るか無いかを基準にする清水気功の実践面から見ると、
入力型の音霊が音を聞く音霊法であり、
出力型の音霊が発声する真言・称名念仏。
音霊法は雑念OKなので実践しやすく、
やり込んでいくと初期の頃、苦痛に感じる15分間が、
5分間程度に感じられ、調子がいいと40分間が10分程度に
感じられ、不思議な感覚が色々。
真言は振動を体感的に感じやすいが、
音霊法の方が心や肉体の変容を感じやすい。
痛みを消すにはイメージ滝行が早く鎮痛しやすく、
光のイメージは体感的には微妙で神仏系か?
意密的には火や水のイメージのほうが気感が敏感になり、
光のイメージより、Egボールの感触が分りやすい。
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