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2019年12月28日17:21

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飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ(井村和清)

10年以上前、NHKアーカイブスという昔の番組を流す放送で、1981年放送「妻へ飛鳥へそしてまだ見ぬ子へ」という放送を見た。
これは1980年出版の井村和清・著「飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ」という著作をもとに、俳優の宇野重吉さんが朗読するスタイルの番組で、大阪が舞台でもあるので印象に残っていた
ふと、その本が読みたくなって図書館で借りてきた。この著作は大変話題になり、その後映画やドラマにもなった。
井村和清医師は沖縄出身の倫子(みちこ)夫人と結婚し、1977年に大阪の岸和田徳洲会病院に赴任。その年の7月に娘の飛鳥さんをもうけたが、その頃より右膝に痛みを感じるようになり、精密検査の結果悪性の肉腫が発見され、転移を防ぐために右脚を切断。
1978年5月には義足で職場に復帰するが、8月には両肺に転移しているののが発見され、自ら余命6か月と診断する。それでも倒れるまで診療を続け、1979年1月に故郷の富山で亡くなった。
この本を読んで痛感するのは、井村医師が常に周りの人に対して深い感謝の心を持ち続けていたことだ。実母は早くに亡くなったのだが、父親の再婚相手の新しい母親にも死の直前まで感謝の言葉を伝え、その新しい母親の亡くなった元の旦那さんへの気遣いまでされている。
近年、ネット上では千羽鶴なんて送られても迷惑だ、という書き込みがあふれているが、井村医師は病床に送られた8000羽の千羽鶴を見て、折ってくれた人ひとりひとりの思いに感謝されている。

NHKの放送の宇野重吉さんの朗読で特に印象に残ったのは、両肺に転移が見つかり余命が短いとわかった1978年8月の記述だった。

「その日の夕刻、自分のアパートの駐車場に車をとめながら、私は不思議な光景を見ていました。世の中がとても輝いて見えるのです。スーパーへ来る買い物客が輝いている。走りまわる子供たちが輝いている。犬が、垂れはじめた稲穂が、雑草が、電柱が、小石までが輝いてみえるのです。アパートへ戻ってみた妻もまた、手を合わせたいほど尊くみえたのでした」

これは本文だけでなくご自身の日記や徳洲会病院の人たちにあてた手紙にも書かれていたので、よほど強い印象に残ったのだろう。
日記にはアパートは「グリーンハイツ」とあるので、移転前の岸和田徳洲会病院のすぐ近くの忠岡グリーンハイツ(1階がスーパーのライフ)にお住まいだったようだ。
41年後に同じ場所に行ってみたが、私には何も輝いて見えなかった。
何事にも感謝に、死の直前までありがとうと言いながら亡くなり、世の中のものが輝いてみえた井村医師。
ろくに感謝の念も持たず、無感動に過ごす自分が恥ずかしくなってしまう。
本は図書館に返したが、ずっと手元に置いておきたくなる本で、どこかで探して買ってこようと思った。

岸和田徳洲会病院は今は別の場所に移転したが、義足の井村医師が使いやすいよう加工された机や遺稿が今も展示されている。
なお、NHKの「妻へ飛鳥へそしてまだ見ぬ子へ」はNHK大阪放送局のアーカイブスのコーナーで無料で視聴できる。

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