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2019年11月15日08:24

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アダルトゲームがアダルトなのは当たり前

■秋葉原にアダルトゲームの巨大広告 東京都が現地調査、千代田区は指導へ
(弁護士ドットコム - 11月11日 13:21)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=149&from=diary&id=5859708

 福岡には「中洲」という、日本有数の繁華街があって、私は行ったことがないのだが(ホントよ)、男性にとってはとっても楽しいお店が軒(があるかどうかは知らんが)を並べているそうである。
 現地にたちよったことはないが、その手の店の「広告」はやたらと見かける。なんたって、天神の目抜き通りを、宣伝カーが堂々と走り回っているのだ。ありふれた風景であるから、いちいちマジマジと目を凝らして視ることはしないが、似非フェミの方々が目尻を吊り上げて怒り心頭に発する叫びを上げそうなイラストなんかが描かれているのがスタンダードである。
 でも実際には、そんないかがわしい車を昼日中から街中を走らせるとはケシカラン、などという苦情・クレームが役所やその手の店に寄せられたなんて話はとんと聞かない。仮にあったとしても、「商売の邪魔をするな」の一言で、鼻も引っかけられないだろう。つくづく、福岡という街と人のおおらかさには敬服する次第である。

 「宇崎ちゃん」騒動からこっち、またまた偽善者たちによるエロイラストへの糾弾が喧しくなっている。『SKET DANCE』『彼方のアストラ』で知られる漫画家の篠原健太が、Twitterに自身の漫画感を表明したところ、トバッチリを食らう形で炎上、それが直接の原因ではないとしながらも、結果的にTwitterアカウントを削除することになってしまった。自分が不快に思うものは何としても抹消しないことには気が済まない、イカレた精神の持ち主は、ますますその暴力性を増しているのが現状だと言える。
 もちろん「表現の自由」を標榜する方々は、宇崎ちゃん騒動でも擁護の論陣を張っていたのだが、今回のアダルトゲーム『もっと!孕ませ!炎のおっぱい超エロ♡アプリ学園!』の広告ポスターに関しては、沈黙を決め込んでいる人が大多数のように見受けられる。「さすがにこれは駄目だろう」と、救いの手を差し伸べようという気になれないでいるのかもしれない。
 けれども、「表現の自由を保障する」というのは、そもそも「この表現はよくて、この表現はダメ」という「線引き」そのものを否定する概念である。つまり「全ての表現は、その内容如何を問わず、保証されなければならない」ものなのだ。アダルトゲームもまた然りである。

 これまでにも、女性の性的表現が問題視されるたびに、「そんな文句を付けるほどエロくないぞ」と、擁護するつもりでそう発言していた表現規制反対派は少なからずいたが、そのリクツ自体、表現の自由の意味を理解していないことを露呈してしまっている。
 『響け!ユーフォニアム』だって、碧志摩メグだって、『のうりん』の良田胡蝶にしろ、キズナアイにしろ、間違いなくエロいのである。女性の身体の一部を強調することで、性的表現としていることは、紛れもない事実なのだ。
 しかしそれを「猥褻」と決めつけて、セクハラだあ、女性差別だあと騒ぎ立てることの方が、とんでもない勘違いなのだ。それこそ「猥褻」なんて個人の主観にすぎないものを、客観的な法律や条例の根拠とすること自体、間違っている。東京都の青少年健全育成条例の方が、憲法で保障されている表現の自由を侵害している「違法」以外の何物でもない。種々の「猥褻裁判」では、その議論が持ち出されるたびに、裁判所は回答を避けてきているが、その事実が反作用的に「猥褻認定」が「憲法違反」であることを逆証明している。

 今回のポスターについても、「誰が面白いと思っても、それを不愉快と思う人間もいるのだから、撤去は当然」と屁理屈をこねている阿呆も結構いるのだが、なぜそれがただの主観に過ぎないと気が付かないのだろうか。
 「誰かが不愉快だと感じるものでも、他の誰かにとっては面白いものもある。だから表現を簡単に否定してはならない」というのが客観的な「正しい理屈」である。誰かの勝手な「不快」という感情で、表現が否定され、圧殺されることは、我々の「生きる権利」が根本から奪われてしまうことと同義だと、我々はあの戦争で学んだのではなかったか。戦時中、真っ先に統制されたのは、小説にしろ絵画にしろ、当局によって「猥褻」と認定された表現だったのだ。
 女性が肌を露出させられず、秘匿を強いられていた時代と、ボン・キュッ・ボンを堂々と披露できる時代のどちらが自由で明朗であるか、考えるまでもない。

 近所に小学校やら幼稚園もあると、「教育環境」としての問題点を指摘して、広告の撤去に正当性を与えようとしている意見もあるようだが、記事をよく読むと、それらの施設は、ポスターの掲示位置からは300メートルも離れているのである。そんなに近いと言えるほどの距離でもないように思うが、どうなのだろうか。
 そもそも秋葉原という街自体、エロゲ―や大人アニメの店やら、メイド喫茶やらがある街で、子供が気軽に遊んで廻る場所じゃないだろう。エロゲ―のポスターがあっても全然おかしくはないのに、紛れ込んでくる「かもしれない」子供がどうのとダシにするのは、仮定を基にした我田引水、牽強付会の説に過ぎないと言わざるを得ない。

 性表現を批判する方が、女性から自由と権利を奪い、女性の性のあり方を否定する性差別に他ならない。何度も「日本のフェミニズムは似非フェミニズムに陥っている」と指摘しているが、「戦前回帰」を目論んでいると言われても仕方がないくらい、最近の糾弾の仕方は常軌を逸している。「宇崎ちゃん」の件では、フェミニストの岩渕潤子が「巨乳は奇形」「知的障害を連想」「童顔巨乳描写は障害描写でありヘイト」とやらかして猛反発を受けたが、その発言自体が差別に当たることを、本人も彼女の擁護者たちも、全く自覚・理解できていないのだ。
 そうした無自覚な性差別主義者は、これからも新たな標的となるものがないかと探し回って、難癖を付け続けることだろう。彼らのメンタルの根底にあるのが、単に性表現に対する嫌悪感に留まらず、漫画表現そのものへの不快感であることは、これまでの乱れ撃ちのような糾弾活動の数々でも明白だと思う。

 だから表現規制反対派は、「さすがにアダルトゲームの広告はちょっとね」と手を拱いていてはいけないのである。たとえ自身がその表現に対して、不快感を覚えたとしても――優先すべきは、そうした「個人の好悪の感情」ではなく、「表現の自由を守る」という「憲法の理念」なのだということを、深く理解しなければならないのである。
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