mixiユーザー(id:21004658)

2019年10月10日14:27

31 view

『天寿国の末裔』719 皇太子幼少にして政道に審ならざる

『天寿国の末裔』「皇太子幼少にして政道に審ならざる」

719
○『是年 十月十七日 元正天皇、皇太子幼少にして政道に審ならざるにより、舎人・新田部、両親王を補佐の臣となし給ふ。』
<十月十七日 次のように詔した。
 国が初めて出来た時からこの方、法令のあることは久しい。君臣の地位を定めて世は運ばれてきた。中古に及ぶまでそのように行われてきたが、まだ整った法文にあらわすまでには至らなかった。
 降って近江の世(天智朝)になって寛厳それぞれの法令が備わり、藤原朝(文武朝)に大いに条文の増減が有ったが、その後いろいろ改めらて恒久の法令が出来た。
そこで遠い祖先の正しい法典を思い、歴代の天皇の法の決まりを考えて見ると、大きな事業を継承するのは、まさに皇太子である。しかしまだ年少のため政道には未熟である。ただ考えてみると、正しい暦をもって皇位に就き、祥瑞をも意のままに政務にのぞむには、なお補佐する人材があって、天下を太平にし、必ず助けすすめる物がって、はじめて運行を安定させることができるのである。
そこで舎人親王・新田部親王は、百年を経た松や桂のように、本も枝も長幼の序にかなっており、高大な城の礎石のように、盤石の重みを国家に加えてくれる。すべからく清廉・正直の徳を発揮して、大切な子孫を助け仁義を扶助して、幼年の皇太子をたすけるように。そのようであれば必ず天下は太平に治まるであろうし、国家が隆盛安泰になる気運も招致できよう。両親王はこの立場をよく考えて慎まなければならぬ。今、この二人の親王は、皇室の年長者でもあり、朕にとっても重要な人物である。まことに褒賞を加えて、優れていることを褒賞すべきである。徳を尊ぶ道は、すでに古いならわしがある。親族を尊ぶ道理も現在無くてよいはずがない。(略)
その舎人は身辺で雑役として使用し、衛士は外出の際の警固にあてよ。どうかくれぐれも慎むように。そして朕の意に副え。全ての公卿たちもそれぞれよくこのことを承知せよ。>
<続日本記 宇治谷孟 上 p.203〜205>

皇太子は若者にありがちな理想主義的な国家建設の提案を参議達の前で披瀝したのだろうか。参議達は驚くと同時に、理想主義的にかたより具体性のない皇太子に失望したのだろうか。
元正天皇は理想主義である皇太子の挙動を見て、舎人・新田部、両親王を補佐の臣となされた。武智麻呂には何をしているのだろうか。この場に彼の名はまだ無い。いいや、かれは後の聖武天皇を正しく導いていたのだろう。

明けて養老四年(720)五月、日本書紀撰上が舎人親王により報告される。
★八月に不比等が薨かる。六十三歳の大往生である。聖武天皇は在りし日の不比等をしのぶ。藤原四卿を一つに纏めていた「箍・たが」が外れることをも意味する。
   
○『養老 五年(721)一月二十三日 佐為王・山上憶良等十六人に詔し、東宮に持講せしむ。』

 <正月二十三日 天皇は従五位上の佐為王・従五位下の伊部王・従五位上の紀朝臣男人・日下部宿禰老・従五位上の山田史三方・従五位下の山上臣憶良・朝来直賀須夜・紀朝臣清人・正六位上の越智直広江・船連大魚・山口忌寸田主・正六位下の楽浪河内・従六位下の大宅朝臣鎌麻呂・正七位上の土師宿禰百村・従七位下の塩屋連吉麻呂・刀利宣令らに詔し、役所から退出後は皇太子(首皇子)に侍らせることにした。>(続日本記 宇治谷孟 上p.220)


東宮は「夜間大学講座」の様相を見せ始める。当代一流の知識人達が講座を持ち始めたのだろうか。
いや、違う。文化国家建設の偉大な一歩がここにある。文明の新展開である。

新たな時代の一歩はここから始められたと解釈すべきだろう。
このことは「天平時代のシンクタンク」が形成されたと見るべき事なのだ。
時に、聖武天皇は既に二十二才である。

律令が完成しても、受留める国民は無学文盲である。役人にしても知的水準はまちまちである。学校も寺子屋も無い。文字は渡来人、僧侶と役人の特権である。しかし、国民の理解できない状態では、律令は画餅でしかない。
人をして人を動かすのは、強権による命令でしかない。これでは国力など上がらない。国家指導者はその限界に気付いている。
 このことは、総国民文明開化の記念すべき幕開けである。

皇太子にしても「物の見方考え方」などは、もう自家薬籠中のものである。
新たな日本国家の設計図が造り始められたと見るべきなのだ。
それとも元明天皇は「浮世離れ」させてはならじ、として東宮での講座を開始されたのだろうか。ならば先に酒肉に溺れているだろう。


「帝王」として、世界とどう対峙するか、が重要なのだ。男なら「英雄豪傑」に憧れがあって「思想・戦略」に興味を覚える人なのである。
皇太子にあって、社交辞令や遊興は「虚飾」にしか見えない。何故なら精神は世界を飛翔する。

 それを見知る元明天皇は「浮世離れ」させてはならじ、として東宮での講座を開始された。

<正月二十七日  次のように詔した。(略)
 文人と武士は国家の重んずる所であり、医術・卜筮・方術(天文)は昔も今も貴ばれる。百官の中から学業を深く修め、人の模範とすべき者を上げて、褒賞を与え、後進を励ます事としたい。>(続日本記 宇治谷孟 上p.221)

どうせするなら皇太子のみならず、多くの若者に学ぶ機会を与えたい。社交界にもしたい。

二月二十六日 藤原不比等の死が記される。元正天皇は慟哭されている。



2 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する