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2019年07月07日23:23

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土日は、いろいろ用事があり すこしツイートが出来ただけでした。

土日にこそ 下賤芸能教団の 啓蒙と宣伝をツイッターで ばんばんツイートしてゆこうと考えていたのですが、

いろいろ用事が出来てしまい、 先ほど すこしだけツイートできただけでした。

しかし 内容は 容量もわかってきたこともあり、 いままでより充実した啓蒙宣伝内容になっていると思う。


最新のところを覗いてみておいてください。

↓↓↓

https://twitter.com/monoiubuyouka



アメブロの方には、このURLが貼りつかないので?   先ほど書いたツイートを一つ一つコピペしたのですが、

ツイート内容自体は、こちらの方が、見やすいので、 こちらにもそれを そのまま転載します。

↓↓↓


私達の新宗教では、アガペもエロスもなく、普通に誰かを他の人として愛せたら そこに何にもかえがたい心の宝を見つけることが出来ると考える。 言葉だけでは語りえない大切な心の宝をだ。

誰かを もし普通に愛せたら、 ただし命を懸けてもいいぐらいに愛せたら、私たちは他にかけがえのない心の宝を見つける。 言葉だけでは語りえない宝。 そして人間のすべて、人間存在のすべてを信じれるような宝をだ。

もし 人間存在を心の奥から信じることが出来た時には、 唯物論も有神論も無く、神仏を信じている状態と同じことになる。 そこに上下はない。ならば、 私たちはむしろ下から学ぶ。下から和合し協力する。 上からの万教帰一はいらない。


万教帰一は私たちの主張ではない。 私たちは下賤でいい。 万教に下でいい。 そのぶん中身をしっかりすればいい。 そのぶん中身をひたすら豊かにすればいい。むしろ万教からも学び続ける。 和合しむしろ協力し続ける

私達は オームと同じと思われてもいい。すべての非難を甘んじる。 下賤をむしろ誇りとする。 いや みんなにもそれをむしろ誇りとしてほしい。柳の柔らかく垂れるのを、腰の低さを、卑屈にではなく胸を張って誇りとしてほしい。

私達の考えでは、すべての人が、どこの地点からも人生を再チャレンジできると考える。 実際の癒すための芸能を求め、その癒しの力で 人の心の再チャレンジの心の軸を作るのだ。 だから私たちは、図べ手の人を受け入れる。出所者も出院者も。

私達は、すべての人を受け入れる。 出所者も出院者も。 人生のどこの地点にも、芸能の実際の深みで癒されることを受け入れる人は、どんな機根であろうと同じく再チャレンジの軸を得ることが出来ると考えるからだ。 人に上下はない。

私はこの教団の教主だ。 責任をすべて引き受けよう。教主とはそれだけの意味だ。 リーダーという役割を負うだけの者だ。 偉いとかではない。責任と役割を持っただけの あなたの ただの友達だ。当たり前の、ただの友達だ。


私達の宗教はミクシィに始まりミクシィに終わる。 ミクシィ教ではないが、ネットコミュニティ教ではあるのかもしれない。 このコミュでやしなわれ強化された心の軸で、それぞれの大好きなコミュ使命あるコミュに帰っていけばいいからだ。

ミクシィコミュが活性化すれば 他のあらゆる形体のSNSも発展する。 だが、中身を深くできるコミュがこの日本発のミクシィをおいてほかにないのであれば すべてはミクシィから始まる道となるだろう。そのためにも努力してゆく新宗教が誕生したのだ。

私達の宗教コミュは、あらゆるカテゴリーのトピを誰も追いつけない豊かさで用意しておくことを目指している。 まだそれは始まったばかりではあっても、 それらがさらに統一の取れた形にもなってゆくことを ここに宣言しておく。

私達の宗教コミュでは、そこに世界一の豊かな質と量のトピを用意して待っている。まだ、始まったばかりだが その兆し、その燭光をそこに見出すなら、今から入って盛り上げていってほしい。そこからは 豊かさだけでなく心の軸も得られるだろう。

私達の宗教コミュで、世界一の豊かな質と量のトピを用意することを目指しているのは、 一つには ネットコミュの無料大学の質を求めるからだ。 学問と 哲学と 宗教の大改革を求める大学だ。 人類が再び大地に寝ずいて歩き出す道を目指す大学だ。

選挙で 誰かを選んでしまう時 私の心は苦しい。後ろめたい。なぜなら、総合政策がどこまで総合的に考えられたその人なのかも そこからの計算の答えをもっているのかも その政策表明からは誰も見えていないのに 私自身も同じく計算なんかできていないからだ。

私も  物事のあらゆる側面を、できうる限りに総合的に考えて、無い頭の中では当然 精一杯は答えの数字をひねったりしながら 選挙での投票を心がけようとはしている。 でも その答えを私自身が信じられていない。 選挙態勢自体進化してほしいと思う。

非国民だと思われても、私は できうる限りは選挙にはいかないつもりだ。 今のままでは どうやって、何が一番総合的に判断された政策か、どれが一番様々な視点を計算した答えとなっているのか 判断可能なのだろうか?  また基準はどこにあるのか?

私だって 例えば中国の今のままの覇権主義の脅威の前には 軍隊や包囲網としての外交も考える。 ただそれは解決策ではないので またそれだけで危険性をぬぐえないので、共産党変革への道すじも深く考えていたりする。でもそれもまた 答えなのどうか?

私だって例えば、高齢者の健康寿命や 主体性自律性を考えることと それによる若者への負担の軽減と 学校教育の変革や 保育の世界の大改革や 世代間交流の在り方などを総合的に考えたうえで 介護問題一つとっても出来るだけは複眼的に考えている

私だって、政治に関心がないどころか、できうる限りは総合的に また科学的数字を求めて考えてはいる。 でも これって一人で計算したところで答えが出て着うるのだろうか?  賢主主義あるいは 県民民主主義のためには、やはりネット大学が必須なのでは。

私だって、政治に関心がないどころか、できうる限りは総合的に また科学的数字を求めて考えてはいる。 でも これって一人で計算したところで答えが出て着うるのだろうか?  賢主主義あるいは 県民民主主義のためには、やはりネット大学が必須なのでは。

私達の宗教は、 けして 社会から目をそらすための 釈迦意を求める宗教なんかではない。 その逆だ。 社会を変革するための宗教だ。 だがそのための総合政策学をふかめるた目には、 そこにそのネットコミュに多くの科学哲学者たちを集めるのが必須となる。

私達が このコミュに 世界一の量と質のトピを用意するピジョンを持つのは、教主の知恵を生かすためだけではなくて、 より多くの人の知恵や知識や科学力、計算力を集めるためでもあるのだ。 心の部分に連帯と軸を作ることだけが教主の役割であるにすぎない。

私という教主の考えでは、 人の心の中軸には、ただの当たり前の心でただ単に、人を人として尊敬できれば それがすべてとなる、という単純な心の軸論となってしまう。 それにつきる。 そしてそこから逆にすべての学問を変革するだけなのだ。

私達の宗教では、人の心の軸には、ただ単に人の心を尊重して 徹底的に友達として傾聴すること それがすべてとなる。 という単純な「心の軸」論となってしまう。 そして、そこから逆にすべての学問を変革するだけなのだ。

私達の宗教では、 日本の太古の 一万年以上も争いの跡が見られない縄文時代の精神をなによりもあらゆる想像力で求め続けることを 基軸とする。 彼らは 船による広大な交易の力も持っていた。 にもかかわらず、そこには和の魂の軸が崩れなかった。

日本の太古の縄文時代には、 私たちは、大地に根を張った生き方を見出し想像する。 自然豊かな大地と海を愛し、人や物の交流を愛し、 おそらく世界にも旅立った たくましく優しくおおらかな日本人の祖先を想像する

日本の太古の縄文時代には、時には私たちの想像を絶する厳しい困窮もあっただろう。にもかかわらず 争いの跡が考古学的に見られない奇跡の時代。 そこには 衣食住を質素に愛する豊かな感性と 介護とコミュニケーションを愛するシンプルな生活が根付いていた。

日本の太古の縄文時代から 深い精神性を学ぼうとする様々な瞑想を求めるのが神道や古神道の本道だと思う。 その平和な一万年は はるかに長い。メソポタミアの地にも アダムとイブの神話の裏にも、もしかしたらその楽園が・・・・と思えてしまうのは、、、

ユダヤ思想 キリスト教もイスラム教も 人を愛することに生き方を見出す思想だ。 そこに神の愛を説く故の一神教。 私達、神が解らない下賤民は 文字通り 下から両教えを学び、 和合して協力することしかできない。 が それなら出来る。


私達は 虫けらでさへ、神よりは偉いとしか考えることが出来ない。 神は努力しないでも存在できるからだ。 でもそれ以上何を知ることもできない凡人だ。 でも 人を愛する時には、すべての秩序の源を 確信することは出来ると信じる。


私達は、ユダヤ一神教を否定しない。 尊敬する。 しかし 日本の神道の多神教の本当の精神も愛する。  雨風の中に、 その静かな音の中に癒される感性に 万物に神宿るの感性の歌を見出すからだ。  そこに矛盾はないと考える

私達は、日蓮の南無妙法蓮華経という単純な7文字を 仏教の学問の巨大な歴史よりもすごいと思う。 たった7文字でも 日本の太古の精神、大地に根を張った和の魂のすべてを表わしていることを、普通の日本語の意味でなら解るからだ。

私達は 日蓮の南無妙法蓮華経という単純な、たったの7文字が 人生のすべての在り方を示していることを学ぶ。 だが、それは日本語としての普通の意味から考えてのことだ。 あらゆる日蓮宗、日蓮正宗、その他日蓮の教団からも学び、和合し協力を尽くしてみたい。


仏教の曼荼羅についてなら、 そんなデザインよりは、現代の芸能のほうがはるかに 人生を深くとらえることが出来るというふうに芸能教団としては主張したい。 しかしそれもまた 私たちが神秘の世界を知る力が無い下賤者だからなのかもしれない。


私達は 私たちの見つけることのできる人間を信じる道筋を歩き続ける。 だが、同時に 他のすべての宗教の中の 必死に真実や癒しや苦しみのある世界の苦悩の解決を求めた努力を 尊敬する。 同じ血の通った人間のその努力の世界を 深く愛したい。

私達も 学問は学問として そこに誤りがあるなら正したいと思う。 その努力も それをできる人であれば してゆくことを応援しよう。 しかし 学問は学問として批判しても 人を愛することとは別の事とも考える。 今苦しんでいる人は、そこにいるのだから。


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けっこうたくさん書いていました^^。

それでも、 今のツイッターでは どんどん流れていってしまうので  こうして集めておくページも大事そうですね。


では、今日は以上です。



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