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2019年07月01日22:36

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今日も、少し 下賤芸能教団の中身を書いておきます。

 今日、先ほど下賤芸能教団の中で書いて「教主メッセ」です。

▼▼▼

『教主メッセ』どこまでも めげない道(読み切り)


めげるって何?  めげる意味が解らないよ♪

どうせなら そのぐらいポジティブでいよう。

そうすればいつか すべてをぶっ飛ばせる^^。


倒れない人が強いんではないよ。

人は進めば倒れる。 風を受ける。ストレスも抱える。

倒れない人が強いんではない。

倒れて、おきあがるひとが強いんだ。


若いとき私が聞いた言葉です。


自分に人生は 倒れてばかりだった。 だから いまがあるのだろう^^。


25歳ぐらいだったかな。

作曲なんて出来ないけれど、 作詞なんて言うのも いざ構えたら出来ないのだけど、

ひとつだけ 私が作詞作曲した歌がある。


実は 私は 小学校二年生までは、 音符が読めた。

それどころか 何と、夢の中で聞いた音楽を 起きてから楽譜に書けたのだ。

ところが ある時から あるいじめにあい すっかり体を壊し、 とうとういくつかの肺炎で死の床をはいずっていらい(肺炎は 一人一種類しかかからないと聞くのですが、 私の場合は その通りでは無かった)、  脳もどこかをやられたらしく、  音符は読むことも出来なくなってしまった。

だから、 その曲は、 何かの才能で生まれたのではなくて まったくの偶然に過ぎなかった。

でも この歌を とある農学校の文化祭で歌ったら その晩一番のアンコールを受けた。


それは、こんな歌だった。(できるだけ早く カラオケで歌って Youtubeに載せてこちらに紹介します)

1、
 例え 悲しみが絶えなかろうと、 

例え、苦しみが絶えなかろうと、

若者よ どこまでも 歩き続けるんだ。

どもまでも どこまでも、どこまでも。


いつの日か希望の光と この手につかむその日まで。

どこまでもどこまでも 進み続けようよ。

2、

倒れても 倒れても また起き上がり

くだけても、くだけても また立ち上がれ、

若者よ どもまでも また立ち上がろうよ。

どこまでもどこまでも また立ち上がろうよ。



いつの日か希望の光を、この手につかむその日まで

どこまでもどこまでも、 進み続けようよ。


▲▲▲

こんな歌詞の歌です。

この歌は、きれいに歌うというより 腹から絞り出すように叫ぶように歌うのがコツのようです。

一度ギターに合わせて、きれいに歌ぅたら  みんな引いてしまったたたた((+_+))"(-""-)"。


このコミュに来た人は、 

「「なせば、成すまで なす」」

この精神を身に着けてください。

一度決めたら 一度進んだら、 どこまでも 最後の最期までやり続ける精神をです。

できるできないじゃなくて、 やり続けるのが人生なのだと思う。

あなたらしく、精一杯生ききれば それでいいのだと思う。


目標が達せられて、 みんなが評価してくれても、 そこがあなたの地点ではない。

そこからさらに進み続けるのだ。

人生の道は なし続ける道なのだ。

やり遂げ続ける道なのだ。

だから できなくても、 最後は 人間皆 心の奥で笑って死ねる。


いつしか 知らない間に生まれてきた私でありあなたでしょ。

生物としての連綿性がいかにあろうとも あなたが、必ずしも生まれて来たとは限らない。

わたしにしても同じだ。

もともとは、いなかった命。

それが 生きてるってことならば、 めげる必要なんて この命にはないと思おう。

さびしい!?

そんなもの前に進んで 死ぬときに笑ってぶっ飛ばせばいいんだよ。


この人生 一人じゃ生きられないときもほんとにあるよ。

子供の頃ね。

ある大人からいじめにあって、 ひとりだけ蹴飛ばされたりしたことが恐怖症になっていったんだけど、

友達にそのことを話して  あいつだけは憎いと言ったら、

その友達は「どんな人であろうと憎むなんていけないよ。 許すべきなんだよ」

もちろん それは正論だよね。

でも 解ってもらえないでは、どうしようもない時もある。

そうして 私は とうとう 孤独のただ中に陥っていき、

神経が狂い始めて行ったんだ。

ある時 私は、ほんとうに、 少しの時間だが 気がくるってしまったことがあった。

気の触れた体験だ。

詳しいことはここでともかく、 その間は別に苦しいというわけではない。 でもその一部始終は 目に焼き付くように思い出せる。

とても人間の意識状態ではなかった。

だから はっ

とが付いた時が惨めだぅた。

子ども心にも 今自分がどうなっていたか 解ったからだ。

物心ついたばかりの時、 もはや、自分の人生は すべておしまいだ!

と思った。

それが 助かったのは、 人に助けられたからなのだ。

私は、その後、 ある美しい海辺の虚弱児施設に入ることが出来た。

そこには、その頃の 子供らしい純朴な友達仲間がいたし おおらかで優しい先生方もいて、  その愛情で 私は 心身快復していったのだ。

人間、 時には 一人でいてはいけない。

助けてくれるようなおおらかな度量のある人たちがいたら、 その中に飛び込もう。

私たちの 下賤芸能教団は どんな 白い目でみられるようになってしまったチンピラと言われている人でも   大歓迎する。

悪人や犯罪者には もう罰しかないという社会には反旗を翻す。

悪人や犯罪者には、 立ち直る権利はもはやないという考えに 私たちは反対し続ける。

ここでは、安心してくつろいでいってほしいし、 そういう場をどんどん作っていきたい。

まっていてください。

希望を失わないでください。

そして どこまでも どこまでも どこまでも めげない道を やがてあなたの心身の中に見つけていってください。

負けないください。

倒れてもまた立ち上がってください。

歩き続けていてください。

大丈夫。 絶対 ここに来たあなたは、いつか気が付く

めげるってなんか解らないよ♪ということが解る時が必ず来る( ^)o(^ )(^^)/(^^♪( `ー´)ノ(^_-)-☆☆☆☆☆♪


▲▲▲

怖い人たちばかりを、集めようとしてるのが下賤芸能教団であるわけではありません(あたりまえですけどね^^)

それどころか、介護の緩やかな連帯のため(これは子供たちのことも含めてのことなのですが)の  全国的連絡網を作ることが 大きな目的の一つなんです。


ここは、説明が難しいビジョンの世界なのですが、

解るかどうかは解らなくても  一つ例を挙げておきますね。

ばあちゃんの古知恵というのがあったりしますよね。

簡単すぎて、専門料理人がふと忘れてたりする知恵の世界、 例えばみそ焼き握り飯、

味噌をつけて焼いて、また味噌をつけて焼いての繰り返しで 表面おこげがちょうどよくつき、中身はふんわりと柔かいおにぎり(これ、たとえ話です)、  

もう食欲がなくなぅたご老人が、その香ばしい香りに、ふと、   なつかしさを食欲を取り戻し、 専門家でもなかなか進まなかった口からの食べるプロジェクトが、そこから急に進んだとするなら、

それって、 ばあちゃん、捨てたもんじゃないわけです。

そんなひとたち、ミクシィに それぞれの道になのですが、 ごまん といます^^。


んんん、  やっぱこれだけじゃ説明になってないですかね。

ともかく 私の中のイメージでは、なんといったたいいのか、(いつも書いてますが^^)ゆるやかな、ゆるやかな連帯、水のように柔らかい連帯、、介護介護と人さまの事ばかり考えてるボランティアというのではなく、ちゃんと自分のことも大切にしているからこそ  その連帯にも 必要な時に自分の力を発揮できるような そんな、強制とはほどどおい連帯のことなのですが、   わ 解りますでしょうか?

水こそ、誰も止められない、川こそ、大河こそ どんな力も止められない。 よし、巨大なダムで止めたとしよう。  川は他にもながれゆき、 海に出てくる。 大海に出てくる。 それをでは埋め立てたとしよう。  それで 水の蒸発は地球から無くなりますか?

雲は 新たな川は,泉は、湧き水は亡くなりますか? 海自体は亡くならない。

水は、地球がある限り、この奇跡の物質は無くならない。

そんな感じの水パワーの世界を 私は、その下賤芸能教団に求めているんです。

だから  それこそ ミクシィの分ぐらいの広大な連帯を求めているともいえるのです。

でも、 ここで、解ってほしいのは、  想像してみてほしいのは、  世の中からみすてられたり、白い目で見られたりすることが  どれだけ 大きな 圧力となりひとをいじけさせてしまうことなのかということを、 どうかできるだけ できうる限りは想像してほしいのです。

失敗や ふとした間違えや 結果の犯罪にしても

 それは、あまりにも大きな連鎖を生み出してしまうんです。

それを断ち切るには、 この世界、 そこを軸とするほどの起点が必要なんです。

忘れてはならないのは、そのような人たちにしても、同じ血の通った人間であることです。

忘れてはならないのは、 そのような人たちにしても、全く同じに、 いつしか気が付いてみたら生きていた  ほかにはどこにもいない  未来永劫にもどこにもいない、 同じ命同士だという事をです。

宗教がそれを忘れたら、、、、、宗教ってなんなんですか?

悪人、その人たちも因果の犠牲者です。 その因果の元こそ 神です。

その神が地獄を創造したことを 信じることで、自分たちだけ地獄から逃れられると そんな悪魔の王者を信用してる あほな善人になるのが、 宗教なんですかね。

だまされることこそが、宗教なんですか?  信仰なんですか?

ちがうでしょ。 

存在が どれだけ尊いかが見えるようになることが大事なんですよね。

大自然が、どれだけ 心を癒してくれるかがみえるようにすることが大事なんですよね。

わすれてはならない、いのちへの愛を取り戻すことが大事なんですよね。

命と命の間に 分け隔てなんてないことを、仏も神も ちゃんとした意識、ちゃんとした人格があるというのなら 偉くもかいくもない その友達以外の何でもないことをこそ 命を懸けてでも語らんとするのが宗教なんではないのですか!

私は
どんなに誤解されても  やっぱり私は この下賤芸能教団の名前は、変えることが出来ないんです。

出所者 出院者のような方々をやっぱり 一番に優先するしか 出来ないんです。

あほかもしれませんね。

でも  コペルニクスではないですが^^、 

やぅぱり、これこそが、本来の宗教だと 私の心は 語り続けざるを得ない。


今日は以上です。

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