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2018年09月25日22:39

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父の昔語り  なぜ志願して戦争へ行ったか

今年の12月で90歳になる父が、15歳の姪が連れてきたお友達3人と姪で4人を相手に話してました。

昭和3年に青森の田舎で生まれ育ち、尋常小学校6年間、その後の高等科2年を終了したら遠縁のお寺へ養子に行かされる話が進んでた頃、満洲義勇軍の募集の貼り紙が役場の前に貼り出されていた。

そこには、満洲は肥沃な大地で、誰でも作物が容易に作れる、十町歩の土地をくれる、と書いてあった。また服装は、毛皮の防寒具姿で、青森辺りで着てる綿入れよりはるかに格好よく見えた。

昭和16年ごろ、すでに日中戦争の最中で、中国からの輸入が激減し、母方の実家の農家が営む養鶏場の飼料の価格が高騰し、祖父母や伯父夫婦が困っていることを聞いていたので、そこで考えたのが、自分が満洲へ行って農業やれば、祖父母達を助ける事が出来る!!

一念発起し、役場は家の隣なので役場の人はみんな顔見知り、そこで満洲義勇軍の話を詳しく聞いたら、働きが良ければ十町歩どころか二十町歩もくれるという、書類に親の署名捺印さえあれば行ける、と、聴いて喜んで書類持って帰ったら。

大カミナリで怒られた。あげくに助けてあげたいと思った母方の祖父母から言われた事は、百姓は一朝一夕にできるものではない。お前には出来ない。

その後、少しはおとなしくお寺の手伝いなどやったり、自分の家の商売手伝ったりしていたけど、母方の実家の農業を手伝いに行ってた。

そうしているうちに太平洋戦争が始まり、いよいよ世の中は不穏になり、従兄弟も数人出征し、地元の先輩たちも出征していく、尋常小学校の高等科を終了したばかりの自分に出来る事?と思ったところで、何ら14歳頃の青年に思いつくことは特になく・・・と過ごしていた時に、また、役場に「海軍特年兵」募集の貼り紙が出た。

今度こそは行くぞ、と決めたら、行動は早く、親や祖父母に言えばまた怒られる事はわかっていたから、こっそりと父親の印鑑を押して名前を勝手に書いて内緒で役場に提出した。

お国のため、そうした気持ちがあったのじゃない。そんな大それた事は考えなかった。
ただ、この戦争が収まれば、また大東亜共栄圏から物資が入ってきて、祖父母の養鶏場にも夜も薄明りのランプが灯せる、ランプが灯せれば、夜中に狐に鶏を盗られる事もなくなる、伯父さんが狐避けで鶏舎で寝る必要がなくなる。従姉妹の嫁ぎ先の菓子屋でも砂糖が入ってまた饅頭が作れるようになる、そう云う事を考えた。

合格通知が届いて、親に発覚し、その時の両親の怒りようと来たら、満洲義勇軍の時の比ではなく、本家の従兄弟もあの分家の誰も出征してると言ったところで、親の怒りは収まらず。それでも昭和18年5月に14歳6か月で海軍に入って、配属先は、国内での通信授受、ただ入ってくる情報は辛い結果ばかり。

昭和20年、次は樺太へ赴任だぞ、と言われ、北海道稚内へ赴任しその後一か月で終戦になって、20年の暮れには地元の青森へ戻った、両親は喜んだけど、物凄い複雑な心持だった。

戦後何年も過ぎてから、自分が戦争に行って何が出来るというのか、ずいぶん思い上がった気持ちで行ったものだとは思ったけど、ただ、ただ、平穏な日々を過ごしたかった。

今の時代でも、スイッチ押せば電気が点く、水道の蛇口ひねれば水が出る、店に買い物行けば好きな商品が買える、そうした普通の生活が出来ると云う事。

しかし、他所の国が攻めてきました、ミサイル撃って来ました、って時に、我が国に九条があります、と言ったところで、九条は幕でも無ければカバーでもないから、それを防御し、国民のそうした日々の生活を守る組織というものは必要。


現在高1の姪の同い年の女の子が先々、防衛大学校への進学を希望していて、戦争経験者の話を聞きたいと言って来て、父がそう大した話も出来んがと言いながら話してました。


そうした話のあと、父は塾へ行く前の姪やそのお友達らと、一緒にオムライス食べて、明日の敬老会で、今年は西條秀樹のヤングマンを手旗信号しながら歌うのだ、と笑いながら話してました。
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