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2018年07月15日05:32

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7月15日の誕生花・薔薇(バラ)

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7月15日の誕生花と花言葉は、夏椿[娑羅の木](愛らしさ)があります。今回は、薔薇[バラ]を取り上げます。花言葉は、「愛らしい・満足」です。


バラ科バラ属の植物です。「ばら」の名は和語で、「いばら」の転訛したもので、「うまら」「うばら」と呼ばれていたそうです。『万葉集』にも「みちのへの茨(うまら)の末(うれ)に延(ほ)ほ豆のからまる君をはかれか行かむ」という歌があり、『常陸国風土記』の茨城郡条には、「穴に住み人をおびやかす土賊の佐伯を滅ぼすために、イバラを穴に仕掛け、追い込んでイバラに身をかけさせた」とあります。常陸国にはこの故事にちなむ茨城(うばらき)という地名があり、茨城県の県名の由来ともなっています。
通常、漢語「薔 薇」の字をあてますが、この語はまた音読みで「そうび」「しょうび」とも読みます。欧米ではラテン語: rosa に由来する名で呼ぶ言語が多く、また同じ語が別義として「ピンク色」の意味をもつことが多いようです。
人類の歴史にバラが登場するのは古代バビロニアの『ギルガメシュ叙事詩』の中でバラの棘について触れた箇所があります。古代ギリシア・ローマでは、バラは愛の女神アプロディテもしくはヴィーナスと関係づけられていました。また香りを愛好され、香油も作られていたようです。プトレマイオス朝エジプトの女王クレオパトラはバラを愛好し、ユリウス・カエサルを歓待した時もふんだんにバラの花や香油を使用したと伝えられています。
ローマでもバラの香油は愛好され、北アフリカや中近東の属州で盛んにバラの栽培が行われたようです。クレオパトラと同様にバラを愛した人物に、暴君とし て知られるローマ帝国第5代皇帝ネロがいます。ネオは、お気に入りの貴族たちを招いて開いた宴会で、庭園の池にバラが浮かべ、バラ水が噴き出す噴水があったり、部屋はもちろんバラで飾られ、皇帝が合図をすると天井からバラが降り注ぎ、料理にももちろんバラの花が使われていたと伝えられています。ちなみにネオは、37年12月15日の本日が誕生日です。
中世ヨーロッパではバラの美しさや芳香が「人々を惑わすもの」として教会によってタブーとされ、修道院で、限定的に薬草として栽培されるに至ったようです。
イスラム世界では白バラはムハンマドを表し、赤バラが唯一神アッラーを表すとされ、香油などが生産され愛好されました。『アラビアンナイト』やウマル・ハイヤームの『ルバイヤ ート』にもバラについての記述があります。
十字軍以降、中近東のバラがヨーロッパに紹介されるよになり、ルネサンスのころには、再び人々の愛好の対象になり、イタリアのボッティチェッリの傑作「ヴィーナスの誕生」のおいてもバラが描かれ、美の象徴とされている他、ダンテの『神曲』天国篇にも天上に聖人や天使の集う純白の「天上の薔薇」として登場します。またカトリック教会は聖母マリアの雅称として「奇しきばらの花」(Rosa Mystica)と呼ぶようになります。
日本はバラの自生地として世界的に知られており、品種改良に使用された原種のうち3種類は日本原産であります。江戸時代初期に、仙台藩の慶長遣欧使節副使・支倉常長が西洋からバラを持ち帰った。そのバラは、伊達光宗の菩提寺の円通院にある光宗の霊廟「三慧殿」の厨子に描かれたため、同寺は「薔薇寺」の通称で呼ばれるようになったそうです。江戸時代には身分を問わず園芸が流行ったが、バラも「コウシンバラ」「モッコウバラ」などが栽培されており、江戸時代日本を訪れたドイツ人ケンペルも「日本でバラが栽培されている」ことを記録している。また与謝蕪村が「愁いつつ岡にのぼれば花いばら」の句を残っています。また、ノイバラの果実は利尿作用があるな ど薬用に利用された。このように日本人にゆかりのある植物であるバラがいまのように「花の女王」として愛好されるようになるのは明治以降で、明治政府は「ラ・フランス」を農業試験用の植物として取り寄せ青山官制農園(いまの東京大学農学部)で栽培させた。馥郁とした香りを嗅ごうと見物客が
しばしば訪れたので株には金網の柵がかけられたようです。その当時はまだ、バラは西洋の「高嶺の花」でありました。その後、バラが接ぎ木で増やせることから、優秀な接ぎ木職人のいる、東京郊外の川口市の安行や京阪神地域の郊外宝塚市の山本で栽培が行われるようになりました。 バラは皇族、華族、高級官僚等の協力者を得て、日本でも徐々に愛好され始め生産量も増え始めました。このように戦後の高度成長の波に乗り、バラは嗜好品として庶民にも普及していき、日本でも品種改良が行われるようになりました。京阪電鉄がバラ園を沿線に造営し、各地にひろがっていきました。同社は戦前から枚方市で菊人形の展示等をおこない、キクが秋の風物であるなら、春の風物として独自のバラ園でのバラの展示をし集客を計画しました。同社は「東洋一のバラ園」の造園をぶち上げ、当時、日本人ではただ一人の英国園芸協会会員で、バラの導入や品種改良で実績のあった岡本勘治郎さんをバラ園造営の監督に迎え、「ひらかたばら園」を開園するに至りました。その後社名が京阪薔薇園になり ました。また、鉄道会社が沿線開発の一環として、バラ園の造営を行うようになり、各地にバラ園が開園されました。
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