ある映画評論家が言っていた。「『仁義なき戦い』は任侠映画じゃない」。
いわく、任侠映画とは鶴田浩二や高倉健のアレで、深作欣二監督の本シリーズは”極道界を材にした群像劇、社会ドラマ”だと。
評論家氏はなぜ本作が原爆のキノコ雲で始まるかから説き起こしていたが、彼の指摘は、いずれも正鵠を射ている。
たとえば笠原和夫の脚本・そのセリフが、いちいち万事に当てはまるのもその証左。
例のアメフト事件に宛ててみよう。
*以下、顛末はすべて報道による。また、流れはあくまでも「ざっくり」ですけぇ、事実と異なる部分大。堪忍してつかいや。
◆やっちまった日大の選手はそもそも有望株で、この春までは、こんな扱いだったか。
広島死闘篇より、「ええ男になれよ、のう」。
これ、いわゆる<仕込み>ですな。若い者を取り込むための、連中の常とう手段。
◆彼は「やる気が見られない」と迫害された挙句、関学との試合前日、こげな風な会話が(想定)。
「のう泰介。こんなもここらで男にならんと、もう舞台は廻ってこんど。お?」
◆試合のあと、当該選手はご承知の通り詫び入れるも、首脳陣は・・・
「そこらのボンクラのやることまで、責任とりゃせんよ」。
◆よしんば当該選手が勝手にやったとしても、本来なら上のモンは、かくあるべきなのだが。
*俺的、理想の上司。もう、うっとり♪←えっ?
「今の時代はよ。相手を殺りさえすりゃあ勝てるいう時代じゃありゃせんので」
◆で、下のモンは、常にこうなる。歴史的に。いつも。
◆思うに・・・件の監督・コーチも、あるいはセクハラ問題でも、奴らの感覚は70年代で止まってるんじゃないだろうか。
松方弘樹の煽りに、伊吹吾郎は独りごちる。。。
「十年前と同じ気分でおってじゃけえ、付き合いきれんわい」
「責任は私にある」と言い条、「私は指示していない」。これ、モリカケもまったく同じな。
アメフトじゃ怪我と心傷を、大人が若い者に。モリトモじゃ死人まで出ておる、上のモンが下のモンにやらせた挙句。
アメフト問題は、そういう意味でも象徴的な事件だが、40数年前の作品『仁義なき〜』シリーズは、今もなお(いっそう)汚ねぇ社会や国のありようを、見事に表し余りない。
ことほど左様に『仁義なき戦い』は普遍的。普遍的なのは、名作の謂いでもある。
そして件の評論家は、本シリーズが任侠映画じゃない理由を、加えてこう述べた。
「義理も人情も廃れた、<仁義なき>というこのタイトルに注目せよ。考えてみよ」
若者よ、暴力はイカンが任侠道は大事。そして汚い大人、権力者に、決して騙されてはいけない。
そんな連中にはこう言ってやれ。若者も、人民も。
「神輿が勝手に歩ける言うんなら歩いてみいや、お!?」
オッサンたるボクも、がんばる。宮川君、サンキュー。
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