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2019年02月18日16:48

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母が余命宣告されました。

復活する復活すると言って・・・・いつぶり?あせあせ
何から書こうか迷っているうちに月日は流れって感じでね。

実は去年12月に母の癌が見つかりました。
去年の2月頃から下っ腹が痛いとかトイレの回数が減ったとか家来るたびボヤいてて、歳のせいかねぇとか話したり、あまり酷いようだったら病院行ってみたら?うん、そのうち行こうかな?なんて話をしたり。
この時に「病院に行きなさい!」と厳しく言えば良かったと後悔。
毎年の事で、秋くらいから寒くなってくると腎盂炎になる母。
去年も恒例のように下っ腹が痛くなってきたから行ってくると病院へ。
いつも腎盂炎だろうって言われたわと言って薬を飲み始めた。
でも、薬飲んでも効き目無いのよ。なんか痛いのよね。オシッコの出も悪いしと言う母。
「薬が効かない」と言うのに、先生から2週間飲んで下さいと言われたからと真面目に効きもしない薬を飲み続ける母。
「薬が効かない」と言っている母に、病院に行ってその事を伝えて変えて貰いなさいと言ったので、てっきり行ってると思っていたら・・・・
あぁ、私がちゃんとあの時母に「先生に薬が合わないと言いに病院に行きなさい!」と言えば良かったと後悔。

その後事態は急速に動いた。

血液検査の結果が悪いので大きな病院を紹介され、その翌日、母は進行性多臓器転移の癌であると分かった。その場で余命も告げられた。
ドラマでは良くこういうシーンは「ご家族の方ちょっと」的な感じで別室に通され検査結果を基に担当医から気難しい顔での話があるもんじゃなかった?
でも現実は違った。
本人いるその場で、付き添っている私のいるその場で、突然言うもんなんだげっそり
凹むとかガーンと来るとか頭が真っ白になるとか、そんなじゃないね、こういう時って。
結構しっかりしているもので「母はこのままだとホントに3カ月なんですね。母は死ぬんですね。」と先生に直ぐ確認。どことどこに転移しているという事も画像見ながら先生とチェックし結構冷静に話しも淡々と聞けた私。
癌と告げられた本人横に淡々と。
結構冷酷よね、私って。
本人目の前にして「母は死ぬんですね」って念押しちゃうんだからあせあせ
後になって、母にあの時の事聞いたら、「あっけにとられた」「自分の話じゃないのかもと思った」「あぁ自分は死ぬんだと思った」とこの三段階に頭の中が切り替わっていったらしい。
ワーッと泣く事もなく、取り乱して動転する事もなく、落胆する事もなく私達親子は淡々としていた。
一緒に来ていた父はどうかというと・・・・・
現実逃避である。
ホント情けない父親です。
「お父さんはだいたい見当がつくからyukaが聞いてくればいい」
と体裁よく言うけれど、直接先生から聞くのが怖くて逃げているだけ。
「医者は結果を大げさに言うもんだ。お母さんは大丈夫だよ」と。
この時直ぐセカンドオピニオンについて先生から言われた。
母の弟、義理の兄や姉達もいるのだから、一旦保留にして帰るべきだったんだろうけど、「先生にお任せします。先生の判断に従います。」と即答。
もうね、余命宣告されてるのに、今更どっかの病院にまた移って検査してなんてやってたら母は死んじゃうと思ったの。
一刻も早く助けて貰わなゃと思って、色々転移してる分かったけれど「取れる所は取っちゃって下さい」とお願いしてね。

最終的検査結果が出て「年齢的に手術は無理。転移が多く、腹膜までいってるので手術しても意味が無い」と言われたのを頼みこんで手術をお願いした。
「運が良ければ延命できる」と言われたので。
「手術が出来たとしても途中で亡くなる確率も高い」とも言われた。
でも「外科の先生の判断で手術が出来るという事であれば手術して欲しい」と伝えて返事を待った。
その返事は早く、その日の夕方「手術をします」と連絡が来た。
その三日後手術をした母。
いまだにこの手術の日は忘れられない。
寿命が縮まるというのはこの瞬間だと思った時があったから。

今母は延命治療として毎週抗がん剤治療をしている。
副作用は多々出てきているけれど、周りが驚くくらい元気です。

今月2月が「もって三か月くらいです」と余命を宣告されて三か月めにあたります。


やっと私の気持ちが落ち着いて普段の生活がおくれるようになったので、去年色々あったここまでの騒動を綴って行きたいと思います。
それが母が生きている限り続く闘病日記となります。
そして先日父も癌が見つかり、これから治療に入ります。
こんな時ばかり仲の良い夫婦にならなくても良いのに・・・一人娘の私はこれから大変ですふらふらあせあせ(飛び散る汗)












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