■「保守」の持論を披露=安倍首相
(時事通信社 - 11月21日 15:05)
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政治家にあって政治家にないものが、教養その他のものまでもあって、政治家なのだろうかというものが集まって、何の意味も成していない。
国民は幸せだったら、決して政治のことなどについて考えたりもしないでしょう。
文化人も又、文化について考えるという気は、おそらく馬鹿馬鹿しくて起こりもしないでしょう。
ないからこそ考えてみたくなるものなのです。
つまり自分にない物はその様に美しく見えるのです。
ですから、政治家にあるものというのは ただ「言葉」しかないのだということです。
そして その言葉を吐かずには居られなくなる。
それ程、我々には文化がない、教養がない事を身にしみて知っているという事ができます。
しかし私たちが、ないないづくしの様な泣き言を並べたてて悲観するには及びません。
そんな呑気な事を言って居られる状況でも又ないのです。
昔健全そのものであった古代人達の想像もつかない程の、若々しい溌剌とした精神にあこがれます。
その存在も信じます。
同時に、もしかするとそれは自分の物にする事が出来るかも知れないという希望も持てるわけになります。
単に物質的な意味や或いは精神的な意味にも受け取れるでしようが、私達は 今の私達の姿、ありのままの私達の生き方にたとえて、少しもさしつかえないのです。
教養とか文化とか、健康な精神とかは、いくら掛け声だけではダメなのです。
持てといっても持てるわけでもなく、くれるといってももらえません。
だいたい日本人というのはセッカチな国民性なのです。
何か結果が現れないと気が済まない。
いつでも何かにつけて、長所は短所である場合が多いのですが、そういう性質の為に、進歩が早いといういい事もあるかわりに、長いことかかってする仕事は甚だ性にあいません。
文化などというものは、一生かかっても成功するかどうかおぼつかない、それ程漠然とした物であります。
このように言葉だけ捉えて、文化などというのも覚悟してかからないかぎり、いくら紙を読まされてスラスラ言っても仕様がないことです。
科学においても同じこと、科学的精神に欠けているから戦争に負ける。
原発も同じことで治し方がわからないで科学で根拠あるデータを出せと日本人はアホの一つ覚えである。
文化も科学も我々の知らないところにハンディキャップがあることでしょう。
文化には科学も又大きな文化と称するものの中の一部です。
よって科学的にとばかり目指した者には、必ずと言っていいほどに結局頭のいい人が立派な人間になるとはきまらない様に、文化的には程度の低い人にならないとも限らないのです。
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