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2017年10月28日21:00

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 【質問】 アブ・カタダって誰?(改訂版,下書き)

 【質問 kérdés】
 アブ・カタダって誰?
Ki az Abu Qatada?

 【回答 válasz】
 アブ・カタダ・アル・フィスティニ Abu Qatada al-Filistini は過激原理主義にかぶれたイスラーム説教師.
Abu Qatada al-Filistini egy Iszlám prédikátor, aki szélsőséges fundamentalizmust szenvedett.
 1993年に偽造パスポートを使い,ヨルダンから英国に亡命.
 2013年,ヨルダンに身柄送致された.

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 宗教的過激原理主義というのは,実は多神教ではないかと思っている.
 建前上の唯一神の他に,過激なことを言う人間を崇拝しているわけで,その時点で2つのものを信仰していることになる.
 これは筆者の言っていることではない.
 イランの思想家アリー・シャリーアティーの述べていることである.
 彼は,ある主張を何であろうが受容し,発布される法令,命令を全て認め,思想・理性の面においても盲従するといった方法で,ある宗教的境地を礼賛し,それに本質的価値を認めるならば,この場合多神教(シルク)の信仰を実践しているに等しい,とし,
「権力,知識,財産,人種ゆえに高慢になり,自分を他人より偉大であると誇示する者,あるいは自分の意思を他人に強制し,自分の好みに従って統治する者は全て,神がかった主張を行う.
 それを受け入れる者は全てシルク(多神教)の信仰者である.
 何故ならば,絶対的統治,絶対意思,自己の顕示,権力,専制,君臨は,神のみに限定されているからである.
 タウヒードの信仰者は,神以外に服従しない.
 まさにこれがイスラームの意味である」
としている.
(『イスラーム再構築の思想』(大村書店,1997))

 そんなシルク連中の中には,
「こんな尖ったことを言う俺様すげー」
という,自分自身を崇拝しているかのような説法師もいる.
 日本で言えば中田考が該当するだろうし,これから紹介するアブ・カタダもそうした一人と言える.

 アブ・カタダは本名をオマル・マフムード・オスマン Omar Mahmoud Othman という.
 1960年,当時ヨルダン統治下にあったベツレヘム西岸地区に生まれた.
 彼の親族によれば,17歳の時にはすでに熱心なムスリムだったという.
 ヨルダン大学のイスラーム法学科を卒業し,イマームとして働く.
 1989年,彼はパキスタンのペシャワールに渡り,シャリーア(イスラーム法学)の教授となった.
 当時,ペシャワールはデオバンド学派の過激原理主義の中心地の一つだった.

 その後,彼はクウェートに渡ったが,1991年,湾岸戦争勃発.
 パレスチナ人はサダム・フセインに与したので,その戦後,パレスチナ人をクウェートは多数追放.
 アブ・カタダも追放されて,ヨルダンに帰国した.

 しかし1993年9月,アブ・カタダはUAEの偽造パスポートを使い,妻や5人の子供と共に英国に逃亡.
 1994年6月,彼はヨルダンで拷問に遭ったと申し立てて亡命を申請し,1998年6月30日まで英国に残留する権利を得た.

 ロンドンでアブ・カタダは宗教家としての活動を開始.
 ロンドン西部のアクトンにあった自宅で集会を開き,テロの暴力について「宗教的に正当」と述べるなど過激原理主義を説き,在英のイスラム教徒の一部の間で影響力を持っていたほか,90年代に途方もない暴力に見舞われていたアルジェリアでの流血を,さらに煽動した.
 在英の亡命アルジェリア人を通じ,彼の
「イスラームを捨てた者は妻子もろとも殺すことが正当」
という見解がアルジェリアにもたらされたからである.

 また,週刊誌「Usrat al-Ansar」の編集長に就任.
 これは「Groupe Islamique Armé (GIA:イスラーム武装グループ)」のプロパガンダ誌.
 中身は反ユダヤ主義などから成るものだった.

 MI5も,イスラーム過激原理主義者の内的論理を知るため,彼に数度接触したという.

 1998年5月8日,彼は無期限の残留を申請.

 2000年,西欧とイスラエルとで同時テロを行う「ミレニアム・テロ」計画が発覚したが,カタダは計画関与を疑われる.

 2001年,彼は9.11テロについて「正当な攻撃」とする見解を述べる.
 9.11テロ犯を含む多くのテロ実行犯が,彼によって宗教的正当性を与えられたと,当局は彼を非難している.
 そうであるなら,彼の自己承認欲求,「俺様スゲー」という気分に浸りたい欲求は,大いに満たされたことだろう.

 2001年2月,ドイツの過激派との関連で逮捕されたものの,裁判では「証拠不十分」で無罪.

 英国当局が外国のテロ容疑者を告発や裁判なしで拘禁することを可能にする新しい法律,「2001年反テロリズム,犯罪及び安全保障法(Anti-Terrorism,Crime and Security Act 2001)」が採択されることになると,その直前にアブ・カタダは行方をくらましたが,2002年10月23日,同法によって逮捕.
 テロリストなど重罪人のための専用房のあるベルマーシュ刑務所(拘置施設でもある)に入れられたが,その措置が違法であるとの裁定が出たため,2005年に釈放.

 そしてここから,彼をヨルダンに送還する/しないを巡る,長い長い法的闘争が始まるが,これはテロリズムのジャンルではなく法学の範疇なので,その詳細は省略.
 すったもんだの末の2013年7月7日,アブ・カタダはヨルダンに身柄送致,収監さる.
 過激主義テロを扇動してテロ被害者の人権を否定している者が,いざ逮捕されると人権を振りかざすのは矛盾した態度のようにしか見えないのだが,アブ・カタダや中田考といった「俺様すげー」教徒にとっては理屈の問題ではないのだろう.

 同国ではアブ・カタダには,テロ共謀罪によって欠席裁判で終身刑判決が出ていた.
 一つは1998年の複数のテロに関するもので,学校とホテルを標的に何度か行なわれたが,建物に軽微な損傷があっただけで,人的被害はなかった.
 もう一つは2000年の別の攻撃計画に関するもの.

 しかしヨルダンでは,欠席裁判の場合は裁判のやり直しができる.
 彼は再審請求し,2014年6月と9月に再審の判決が出る.
 ところが,これがまさかの逆転無罪.
 2014年9月,海外渡航・説法禁止を条件として,彼は釈放された.
 (写真3)は釈放されたアブ・カタダ.

 ちなみにダーイシュに対してはアブ・カタダは批判的.
 2005年11月にダーイシュの前身組織よってイラクで拉致された英国人ノーマン・ケンバーの解放を,2014年1月,獄中から呼びかけ,同年7月には,
「ムスリム指導者達の合意に寄らず,一方的にカリフ国宣言をしたダーイシュは異端である」
との見解を示した.
 さらに,同年9月には,
「預言者ムハンマドの「(情報を)伝える者を殺してはならない」
と言った言葉を引用して,ダーイシュによるジャーナリスト処刑を批判し,ダーイシュ戦闘員を「地獄の炎の犬ども」と呼んだ.

 保釈後は,シリアのイスラーム武装組織を糾合し,ダーイシュとの間の停戦を実現させようと働きかけた.

 こうしたアブ・カタダの姿勢には,
「自分の立場を良くしたいためではないか」
という見方もあるが,それよりも自分自身を信仰する「尖ったことを言う俺様すげー」教徒にとっては,もっと尖った言動をしている奴らは気障りで仕方ないのだろう.

 【参考ページ Referencia Oldal】
https://matome.naver.jp/odai/2141155411658357801
http://www.dailymail.co.uk/news/article-2354055/Abu-Qatada-booted-Sunday-At-Britain-deals-hate-preacher.html
http://www.bbc.co.uk/news/uk-16584923
http://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/middleeast/jordan/10164918/Abu-Qatada-the-making-of-Britains-most-notorious-Islamist.html
http://www.ndl.go.jp/jp/diet/publication/legis/226/022602.pdf
http://blog.goo.ne.jp/jiten4u/e/3cd7bf833b561f21dd8ef183b309fd49
http://memri.jp/bin/articles.cgi?ID=IA23105
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