mixiユーザー(id:8012673)

2017年12月28日18:38

866 view

満蒙開拓平和記念館を訪問して―来年は希望の鐘を!

今年は、明年の明治維新150周年行事、2019年の天皇の交代劇、2020年の東京オリンピック開催の準備の一方で、軍事化や国民に対する監視・情報統制、経済と政治の様々な私物化とモラルハザード…全体として統治エリートと主権者国民の乖離が進行したと思う。

9月に満蒙開拓平和記念館を見学した。民間のささやかな資金を集めて長野県の阿智村にやっと4年前に開館。昨年観た映画「望郷の鐘」http://www.gendaipro.com/bokyo_new/index_top.htmlの舞台となった長岳寺が近くにある。

私は1943年9月に元満州国のソ連国境に近い満蒙開拓青少年義勇軍の宿舎で生まれた。写真にあるように寒さ対策で壁が厚い粗末な家だ。28歳の父は義勇軍の中堅幹部だったが、翌年徴兵され南方戦線に送られた。

長岳寺でゴーンと低く鐘をついた。想いは、時空を超えて零下35度になる極寒の地で果てた人たちに届いただろうか。

日本は、日露戦争でソ連が旧満州に敷設した南満州鉄道の権益を入手。1918〜22年のシベリア革命干渉戦争に際しては大軍でバイカル以東をほぼ制圧した。これを利用して南満州から北満州へと軍事行動を拡大。さらにソ連攻略の機をうかがった。

謀略で柳条湖事件を起こした1931年から宣戦布告なき日中戦争を開始した(15年戦争)。翌1932年には関東軍の主導で傀儡国家「満州国」を建国。この年から移民を開始した。農地や住居の多くは関東軍や満州国政府が中国人から時価の5%程度の価格で強奪。移民はソ連軍の南下や侵略に抵抗する中国人に対する「人間の盾」(型の古い銃やピストルを団ごとに与えた)、軍への食糧・軍馬・現地召集する兵士の調達など軍事目的だった。農地を相続できない農家の次3男等の人減らし策でもあった。「移民」では聞こえが悪いので途中から「開拓」と改め、約27万人を渡らせた。

政府はさらに38年から満15〜18歳の男子8万6530人を青少年義勇軍として送った。農業従事の大義の裏に関東軍の予備軍という目的があった。

1945年2月8日、米英ソはヤルタ協定を締結し、ルーズベルトは太平洋戦争の日本の降伏にソ連の協力が欠かせないため、日ソ中立条約の一方的破棄、すなわちソ連対日参戦を促した。1945年4月、ソ連は日本政府に対して日ソ中立条約の破棄を通告した。

ソ連軍の南下を予想した大本営は5月、南下の際は関東軍と政府機関は速やかに満州国南部と朝鮮国境付近に撤退する決定をした。
この決定はソ連に漏れないよう、開拓団や青少年義勇軍には絶対的な軍事機密とされた。義勇軍は関東軍に代わってソ連国境の最前線に配備された。最後の開拓団が日本から8月2日に出航し満州東北部に着いた8月9日、174万人の極東ソ連軍が攻撃開始。

関東軍は追撃防止のため鉄道や橋を破壊しながら迅速に逃げた。

不意を突かれ大混乱に陥った開拓団や義勇軍は地獄の逃避行。実話を知る私は読むに耐えない。開拓団の青壮年男性は殆ど徴兵されて南方戦線に送られ、老人と女子供中心だった。川を渡れず死ぬ前に子供の衣服を繕う母親たち…。

終戦時、日本政府は海外居留民は現地に留まらせる方針をとった。開拓団等も終戦を知らされず戦い続け、死者は終戦日以降に集中している。
戦死、集団自決(高社郷開拓団500余人の自決・全滅は8月25日)、病死、餓死などで開拓団員の約7万8500人、義勇軍の約2万4200人が死亡した。

今、中国に「降伏」し「敗戦」した事実は議論にさえならない中で共謀罪の施行や改憲など不穏な空気が漂う。私は侵略者でもあった。

このままでは死ねない。来年は皆で希望の鐘をつこう。

(以上「日中戦争全史上・下」(笠原十九司著)、「満州開拓団の真実」(小林弘忠著)、「満蒙開拓平和記念館⦅図録⦆」⦅同館発行⦆など参照)

満蒙開拓平和記念館
https://www.manmoukinenkan.com/

(註)体験や悲惨さを書くのは目的ではありません。改憲問題を論じる布石として記載しました。議論には身体性や史実を知ることが重要な意味を持つと思った次第です。改憲を唱える人たちからは直接の体験は無理としても身体性をあまり感じません。
23 21

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する