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2017年05月24日15:17

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『朝日新聞』が“反対意見”ばかり垂れ流す理由は「コミンテルン」の癌細胞!

■「報道への日本政府の圧力懸念」 国連報告者が指摘
(朝日新聞デジタル - 05月24日 13:33)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=4587243

〔「諸君!」2006.7「もし朝日新聞にああ言われたら-こう言い返せ」特集「元朝日記者・尾崎秀実は平和を愛した信念の人だった-と言われたら」青山昌史・元朝日新聞東京本社代表〕
「尾崎は大正十五年朝日入社.上海特派員の実績などから中国分析能力を買われて第一次近衛内閣嘱託,昭和十三年朝日退社後は満鉄嘱託として中国政策に関与した」
{ソルゲ事件}
「尾崎は東大卒後,一年間大学院で社会科学を研究,大森義太郎経済学部助教授の史的唯物論研究会で共産主義者となる.当時の予審判事に
『私は資本主義体制を打破して階級なき世界共産主義社会実現を理想とする共産主義者だ』
と供述する」
「尾崎は検事局の供述で
『第二次世界戦争は,必ずや世界変革に到達する』と信じ
『太平洋戦争でも,日本は南方で一時米英に勝っても,本来貧弱な経済力に加え,支那事変での消耗がこたえて最終的には破局する』と判断.
『日本の進むべき唯一の方向はソ連と提携し,この援助を受けて日本社会経済を根本的に立て直し,日本を社会主義国家として築き上げねばならぬ』と日本革命への展望を述べた」
「尾崎と親しかった朝日政経部長,田中慎次郎が,陸軍の作戦方針を洩らした疑いで,尾崎が捕まった翌十七年三月検挙されたが,田中は尾崎のスパイ行為を知らなかったとして同六月に釈放された」
「尾崎に情報を提供した田中は戦後直ちに復活して論説をリードした.森恭三(のち論説主幹)は「国民と共に立たん」宣言を起草し,社説で「国民は支配者と判然,区別されねばならぬ」と実質,階級闘争史観を述べた.森は毛沢東の文化大革命を礼賛し,長期政権の広岡知男社長と組んで,林彪中国共産党副主席の死去を報道しないなど,思想のために事実を報道しない愚を犯した」
「実質マルキストの森,田中らと,それらを好んで使った広岡や広岡におもねった社長連中,そして,それらへのお追従の中で,左翼の土壌は培われた」
〔国際ジャーナリスト,山際澄夫氏(「昔も今も中国迎合報道はしていない-と言われたら」〕
広岡路線の中国偏向は酷く「朝日新聞OBの佐々克明氏は,自著の『病める巨象 朝日新聞私史』(文藝春秋 昭和五八年)で,「朝日はトータルとして中国の毛沢東路線の同調者と化してしまっていた」「秋岡氏は退社後,人民日報海外版の日本代理人に就任している.ほかにも北京支局長経験者が対日宣伝誌『人民中国』の編集長をつとめている」対中ODA利権癒着?!

[ゾルゲの告白]
「其の目的の積極的側面はソ聯社会主義国家を擁護せんとしたことであり,消極的側面は,ソ聯をして凡ゆる反ソ的な政治上の発展又は軍事上の攻撃を回避せしめることにより,ソ聯を防衛せんとしたことであります.私達が共産主義の立場に立つてソ聯社会主義国家を擁護防衛することに依り,世界革命に対して間接の寄与貢献を為して来たことは既に申上げたとほりでありますが,私達が共産主義者としてソ聯の指導部たるソ聯共産党を支持し,コミンテルンの標榜する世界革命の綱領を支持することは申す迄もないことであります」(「現代史資料」)
〔山岡貞次郎「支那事変」原書房〕
「すなはち,大正十二年二月四日,日本共産党が創立されるのは,日本人独自の立場からではない.ソ聯戦略の一環を形成し,その指導をうけ,ソ聯に服属するコミンテルン日本支部としてであつた.デビツド・ダーリン氏によると」(「ソビエト・ロシアと極東」エール大学出版)
「一九二八年(昭和三年),国際共産主義第四回大会において,全共産党の第一任務と決定された『ソビエト同盟の擁護』を,日本では文字どほり解釈してゐた.一九三二年(昭和七年),第十二回コミンテルン執行委員会において,日本代表 岡野」(故野○参○氏の変名)「は,“われわれの社会主義者の祖国”に対する危機に直面し,その危機に立ち向かふ任務がいかに偉大であるかを,日本共産党は知ってゐる”と述べ,また一九三三年,おなじく第十三回の会合において岡野は“われわれは,ソビエト支那に味方するだけでなく,ソ聯の平和政策を宣布し,ソ聯の社会主義建設といふ壮大なる業績をも宣伝しなければならぬ”と忠誠こめて誓つてゐる(Loyally pleaded)」
「そしてこの前後,日本共産党に下されたモスクワの指令ともいふべき数おほくのテーゼの冒頭には,かならずといつてよいほど「天皇制廃止」の掲揚を強制されてをり」(市瀬正幸氏著「日本共産党」元々社)「同時にモスクワ共産大学にて教育された日本共産党幹部が,つぎつぎに日本国内に送りこまれ,日本国内の混乱と破壊とに使役される」
「蘆溝橋事件の発火は,米,英,ソに支へられた蒋介石の意図にもとづいて,直接には第二十九軍麾下の部隊が起こした.そして事態を,このやうに展開させた原動力の第一は,ソ聯の多年にわたる東亜侵略への野望である.しかもそれは,レーニン,スターリンとひきつづいて日本をアジアにおける当面最大の敵」に指定した。

〔「諸君」2006.2「もし中国にああ言われたら‐こう言い返せ」特集「国共合作で,中国は一体で抗日戦争を戦ったと言われたら」名越健郎氏・在モスクワ.ジャーナリスト〕
「コミンテルンは蘆溝橋事件直後,中国共産党に対し,
「日中の全面衝突を導き,対日ボイコットを全土に展開し,日本への譲歩を図る要人は抹殺しても構わない」とする秘密指令を出していた」
「「一国社会主義」に転じたスターリンの極東戦略は,日中を全面対決させ,日本軍のソ連攻撃を回避することに集約された.
中国で日本軍と国民党軍を戦わせて双方を疲弊させることで,中国ひいては日本を共産化させるという思惑もあった.中国共産党はその駒として使われたのであり,その後の中国情勢は,スターリンの陰謀通りの展開となった」
{毛沢東が朱徳第八路軍長に与えた訓辞内容}
「中日戦争は中共発展の為絶好の機会である.七分の力を中共の発展に,二分の力を国民政府との対抗に,残りの一分の力を抗日に使用せよ」
{コミンテルンが中共に与えた指令}
「1.あくまで局地解決を避け,日中の全面的衝突を導く.
2.局地解決や妥協を策する要人を抹殺しても良い.
3.民衆に工作して行動を起こさせ,国民政府をして戦争開始のやむなきに立ち入れなければならない」
〔山岡貞次郎「支那事変」〕
「さる一九三六年十一月,新任の駐ソ大使蒋廷敞が,「日本を戦争不可避の状態に押しこめば,ソ聯は中国を武力支援してくれる」保証をとりつけようとしたとき,リトビノフ外務委員は確答を避けた.しかしいま,一九三七年の春から夏にかけて,ボゴモロフおよび国民政府内の親ソ派(もちろん,支那共産党もふくまれる)は,「国民政府が抗日武力戦を企図するばあひは,ソ聯の武力支援を信頼し期待してよい」と国民政府を説得しつづけてゐる」
「しかもボゴモロフは,支那事変勃発後の同年十一月,極東ソ聯軍首脳の支持も得て,外蒙よりするソ聯の直接武力支援(つまり,対日武力発動)計画の承認をうるため飛行機でモスクワに飛んでゐる」「ことをかんがへると,その事前の説得が蒋介石をうごかすに十分な具体性と信頼性をもつてゐたであらうことは,想像にかたくない」…
〔C.C.タンシル「戦争への裏扉」〕
「南京や東京から国務省へ送られた外交文書から,1937年夏,中国の多くの官憲は,日中戦争を熱望していたことが明白である」「日本でなく,中国が戦闘勃発の準備をしていたのであった」
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