難病の医師「使命最期まで」
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=4516655
私も、難病の端くれとしてこの記事で言いたいこと
注目してもらいたいところがある。
それは、>人の力を借りてしか生きていけないことに心が折れ、死ぬことばかり考えるようになりました。しかし、訪問診療の先生やたくさんの専門職に優しくしていただき、やっと生きる希望を持つことができました
「人の力を借りてしか生きて行けない事に心が折れ」
ってある、人って生まれた時もまた老いて逝くときにも人の力を借りないと生きて行けなくなるのよ!
そしてね厳密に言えば、人って人の力を借りないと生きてはいけないはずなのに
なぜかね?「人の力を借りてしか生きて行けない」ことに絶望すら持ってしまうの。
なぜ?それはこの人の様に人に尽くしてきた人ほど陥りやすい思いでもあると思う。
でもね、昨日職場のメールで読んだんだけど
虐待って「お世話する人」と「お世話される人」の固定化から起こり得る
というメールが着ていた。
社会でもそうではなかろうか?
お世話する人はそれをし続ける事で、自分に優位性を見出してしまったり
また、お世話する事に負担があればそこで卑屈にもなることもあるだろう
また世話される人もしかり
でも、人ってお世話されたり、してあげたりそれをお互いが
お互いにしていくからこそ良好な関係また良好な精神が保たれて行く
だからこの医師が言うように
>たくさんの専門職に優しくしていただき、やっと生きる希望を持つことができました
とある、それはね「優しく」それも「専門職」の人にされることによって
傷ついた心をまず回復し、自分が専門職だった時と同じ人から
専門職たる必要性をまた気づかせてもらったからではないの?
と思う。
それは、自分が世話をやかれるだけの存在ではないと気づけたからなんじゃないかな?
とね思う。
難病であることや、障害を持つことが実は生きていく事への絶望とか困難ではなく
社会と言う枠組みの中で自己のアイデンティティが失われていく事
また必要とされない存在になることの方が
よっぽど人は生きる気力を無くしてしまうし「心が折れてしまう」
大きな理由の一つなのだと言う事。
マタネ最初に書いたように「お世話する人」であることの固定化もね
負担感から「虐待」に走ったり心が折れてしまったりするのよ
やってもらうばかりではなく
やってあげるばかりでもなく
その人からも得られるものがたくさんある。
またその人に居てもらう存在意義がある居るだけで存在意義があることを
お世話する人もされる人も自覚していたら、
病や、障害くらいで、人は生きる希望を無くしたりはしないのよ!
私はそう言う人達を沢山見て来たから
この医師はすごい!!
って美談に終わらせてほしくは無いな〜と言いたくなったんだ
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