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2017年03月23日21:14

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●越前福井市の駅前の再開発について

◆福井市は戦災 震災 続けて大洪水。
ほとんどすべてのものが流されて今の街が出来たのは不思議である。
だから不死鳥ともフェニックスとも言われている。
今度 新幹線が北陸線として敦賀まで延伸に成る。
福井は災害で道路を広くして街づくりをして来た。
再開発をしてスキッとした駅前にしたいと色んな人が沢山の知恵を出している。
市内を走る道路が 他所の街に比べると二倍以上は広くしてある。
あまりにも広くしてあるので道幅を狭く取り城下町とか掘割を作り 足羽川とつなぎ川遊びの出来る町にすれば良いのではと考えている。
福井には永平寺が有り 宮大工が居ます。
駅の周辺に宮大工の養成所を作り城下町や北ノ庄城を作ってもらえればと考えている。
この城は立派だったそうだけれど想像図しか無いから一から作らなければならないだろう。
色んな人の知恵を出したら面白い街づくりに成るのではないだろうか。
今から全国で指折りに有名な足羽川の堤防沿いに桜道のトンネルが出来る。
お屋形船や和船を浮かべて遊ぶのも風情があり風流に舟遊びが出来るのではないかな。
柴田勝家の居城だから 中世のもので発展途上の街づくりで良いのではなかろうか。
こんなこと考えるといくらで夢が大きく膨らんでいく。
 
◆ほり‐わり【掘(り)割(り)/堀割】
地面を掘ってつくった水路。ほり。
連続的な切土により周囲の土地より低くして鉄道や道路を通した部分は掘割(ほりわり)という。
 
◆水彩画などの人間国宝の為の紙すきが福井には何人かいる。
この一に月に何度か来て貰い実演などを出来る家を作って立てて貰う。
 
◆鍛冶屋さんもいれるような家を作ってもらうのも良い。
 
◆木地師(きじし)は、轆轤(ろくろ)を用いて椀や盆等の木工品を加工、製造する職人。轆轤師とも呼ばれる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E5%9C%B0%E5%B8%AB
概要

9世紀に近江国蛭谷(現:滋賀県東近江市)で隠棲していた小野宮惟喬親王が、周辺の杣人に木工技術を伝授したところから始まり、日本各地に伝わったと言う伝説がある。 蛭谷、君ヶ畑近辺の社寺に残っていた『氏子狩帳』などの資料から木地師の調査、研究が進んだ。

木地師は惟喬親王の家来、太政大臣小椋秀実の子孫を称し、諸国の山に入り山の7合目より上の木材を自由に伐採できる権利を保証するとされる「朱雀天皇の綸旨」の写しを所持し、山中を移動して生活する集団だった。実際にはこの綸旨は偽文書と見られているが、こうした偽文書をもつ職業集団は珍しくなかった[1]。綸旨の写しは特に特権を保証するわけでもないが、前例に従って世人や時の支配者に扱われることで時とともに実効性を持ち、木地師が定住する場合にも有利に働いた[1]。

木地師は木地物素材が豊富に取れる場所を転々としながら木地挽きをし、里の人や漆掻き、塗師と交易をして生計を立てていた。中には移動生活をやめ集落を作り焼畑耕作と木地挽きで生計を立てる人々もいた。そうした集落は移動する木地師達の拠点ともなった。 幕末には木地師は東北から宮崎までの範囲に7000戸ほどいたと言われ、 明治中期までは美濃を中心に全国各地で木地師達が良質な材木を求めて20〜30年単位で山中を移住していたという。
木地師の伝承

石川県加賀市山中温泉真砂(まなご)地区[2]は惟喬親王を奉じる平家の落人の村落と伝わり、時代を経て何通かの御綸旨で森林の伐採を許された主に木地師達の小村落であったり、山中漆器の源とされる。朝倉氏の庇護もあったが天正元年の一乗谷城の戦い以降は庇護も無くなり一部の木地師達は新天地を求めて加賀から飛騨や東北地方に散って行ったとされる[3]。

会津には元々少数ながら木地師がいたが、蒲生氏郷や保科氏が転封になった時に近江や信濃から木地師を連れて行った。それらの人々は従来の木地師から「渡り木地」と呼ばれた[4]。

木地師が描かれた作品

小説『脊梁山脈』乙川優三郎 新潮社2013年
アニメーション映画『かぐや姫の物語』 スタジオジブリ2013年

 
◆塗師(ぬし)とは、江戸時代以前から用いられた漆芸家の古称である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%97%E5%B8%AB
近代以前の漆芸では分業制が取られており、生地師(きぢし)や蒔絵師(まきえし)などに対して特に漆を塗る職工に用いられる。
関連項目

工芸
工芸(こうげい)とは、実用品に芸術的な意匠を施し、機能性と美術的な美しさを融合させた工作物のこと。多くは、緻密な手作業によって製作される手工業品である。あくまでも実用性を重視しており、鑑賞目的の芸術作品とは異なる。ただし両者の境界は曖昧であり、人によっても解釈は異なる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A5%E8%8A%B8
漆器
漆器(しっき)は、木や紙などに漆(うるし)を塗り重ねて作る工芸品である。日常品から高級品、食器、根付、または車体[1]にと様々な形がある。漆をまとった食器の意味であるがそれに捉われない。漆を表面に塗ることで器物は格段に長持ちする。

ウルシから採れる加工した樹液が漆であるが、これを加工された素地(きじ:素材が木の場合には「木地」)に下地工程、塗り工程と、細かく挙げると30から40になる手順を経て漆器に仕上げていく。この工程は漆工と言われそれぞれに名前があり、生産地別で考え出された漆工も合わせると多岐にわたる。利用される素地にはよく乾燥された木材、竹、紙、金属などがあり現代では合成樹脂も使われている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%86%E5%99%A8
漆工
漆工(しっこう)は、ウルシの樹液から精製される漆(うるし)を器物の表面に塗り重ね、様々な加飾を施す、東洋独特の伝統的技法。漆工芸(うるしこうげい)ともいう。日本、中国、朝鮮半島で盛行し、東南アジアなどでも用いられた。器物に漆を塗る髹漆(きゅうしつ)が基本に挙げられる。これに加え、最近ではスクリーン印刷なども用いられる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%86%E5%B7%A5
金仏壇
金仏壇(きんぶつだん)は仏壇の種類の1つ。白木に漆を塗り、金箔や金粉を施すことからこの名が付く。また「塗仏壇」ともいう。いずれも唐木仏壇に対する名称。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E4%BB%8F%E5%A3%87
蒔絵、彫刻、錺金具などの日本古来の伝統工芸の技法が集約されており、技巧による豪華さが特徴。伝統的な金仏壇の内部は、各宗派の本山寺院の本堂(内陣)を模している。そのため、宗派により造作が異なる。

特に浄土真宗では、金仏壇が推奨される。

室町時代に、浄土真宗中興の祖である本願寺八世蓮如は、布教の際に阿弥陀如来の名号である「南無阿弥陀仏」を書き本尊として信徒に授け、授かった者は表装し、人々の集まる道場などにその掛軸を安置し、礼拝することを奨励した。その後、江戸時代初期以降、各地の道場の多くは本山から寺号を授与されて寺院化し、木像の本尊(阿弥陀如来立像)を安置していくが、一方で個別の信徒の家庭において、阿弥陀如来の名号あるいは絵像を本尊として授与される例が徐々に増加し、これを安置する仏壇(浄土真宗では、他宗における位牌を主体とした先祖壇的な仏壇と区別し、各家庭における阿弥陀如来の礼拝の施設であることを確認する意味で「お内佛」という語を用いる。)が置かれるようになった。これらが製作される際に、本山及び寺院の様式を模することが次第に一般化したことが、現在の金仏壇製作の淵源(えんげん)となった(ちなみに、浄土真宗の本山・寺院や仏壇(内仏)の荘厳に金箔や金粉が多く用いられるのは、所依の経典である「浄土三部経」に説かれる阿弥陀如来の浄土の荘厳を象徴的に示そうとすることに主たる理由があり、単に華麗さを誇るためのものではない)。以上の経緯により、浄土真宗では、仏壇・仏具の荘厳の作法が他宗に比べて厳格である。なお浄土真宗では、お内佛(仏壇)に安置する掛軸(本尊・九字名号・十字名号など)は、「手次寺」(菩提寺)を通して本山から授与されるのが正式である。
 
◆陶磁器(とうじき、英語: pottery and porcelain)
セラミックの一種で、土を練り固め焼いて作ったものの総称。やきもの。

陶磁器に使われる粘土には、加熱することでアルミニウムやカルシウムなど他の物質と化合しガラス化する珪酸を主成分とする石英などが含まれる。成形後に加熱することで、土粒子の間に溶けて流体となったガラスが入り込み、冷めると固体化し土粒子同士をくっつける。『古陶磁の科学』の著者内藤匡は、この過程をおこしに喩えている。おおまかに言えば、陶器と磁器の違いはこのガラスになる成分と量の違いである
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B6%E7%A3%81%E5%99%A8
 
◆鋳物(いもの、英語: cast metal)
加熱して溶かした金属を型に流し込み、冷えて固まった後、型から取り出して作った金属製品。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8B%B3%E7%89%A9
人類が金属の使用を始めた当初から使われた技法で、古代では自然界に純粋な形で産出する金及び精錬が容易な銀、銅、青銅、黄銅等の銅合金が主に用いられた。鉄の精錬はかなり難しく、武器としての性質も優れていたので、人類史上永らく金より高価であった。

現代ではアルミニウム、亜鉛、マグネシウム等の鋳物製品も多数生産されている。

型の材料は古代から砂が用いられ、現代においても砂は最も主要な材料である。ただし、砂だけでは、乾燥すると崩れるので、現在はベントナイトを添加した生型(生砂鋳型)や酸硬化性のフラン樹脂や熱硬化性のフェノール樹脂などの粘結剤(バインダー)を加えて、崩れにくくして用いる。

砂を用いる利点として以下のものがあげられる。

型の成形が容易である
熔けた金属が固まるとき、ガスを放出するが、砂型は砂粒の間に適度な隙間があり、ガスが速やかに放出される。
砂の比熱は小さく、又保温性があるので、流し込んだ金属は急冷される事無く、緩やかに冷却されるので良質の鋳物が出来る。なお、金属の比熱への寄与は、格子よりも電子においてより大きい。
製品を型から取り出す時には、簡単に型が崩せるので複雑な造形が可能。
使用後の砂型は、砕いた後、成分を調整して再利用が出来る。

なお、砂型を作るために、鋳造しようとする形状を木で作った木型を用意することが普通。ひとつの木型から、複数の砂型を作ることができる。
日本の鋳物
この節は広告・宣伝活動のような記述内容になっています。ウィキペディアの方針に沿った中立的な観点の記述内容に、この記事を修正してください。(2016年2月)

日本では鋳物師(いもじ)という称号があり、朝廷から認可を受けた。現代に残る鋳物師としては、鎌倉時代に創業した茨城県桜川市の小田部鋳造株式会社、戦国時代に岐阜城下で創業した株式会社ナベヤが有名。特に梵鐘メーカーである小田部鋳造は、全国の14の鋳物師のうち唯一、天皇家から菊の紋の使用を許されて、現在に至っている。
関連項目

鋳鉄 - ねずみ鋳鉄 - ダクタイル鋳鉄
鋳造 - ダイカスト
鍛造
溶接
キューポラ
川口市- 桑名市
ナベヤ
鍋屋バイテック
ベントナイト

 
◆鋳物師
いもじ
「いものし」とも読む。鋳造を行う工人。鋳師,鋳造師,鋳造匠とも呼ぶ。日本では,鋳造技術が弥生時代後期からあった。奈良時代には官の職制として典鋳司 (いもじのつかさ) がおかれ,鋳造師はここに配属されて仏像,梵鐘などの製作にあたった。
 
◆鋳物師【いもじ】
鋳物職人のこと。古代では鋳工は大蔵省や諸寺院の鋳物所などに所属したが,のち広く諸国を遍歴し交易を行った。一方幕府や守護と関係を強め,東国などに移住する者もおり,給田など支給されて領主らの需要にこたえた。
→関連項目鋳掛屋|遠敷|鍛冶屋|京釜|天明釜|鞴祭|道々の者

 

いもじ【鋳物師】
鉄,銅の鋳造を職能とする職人。銅鐸・銅鏡などの鋳銅は,弥生時代以来,九州,瀬戸内海沿岸,畿内などの鋳工によって行われたが,鋳鉄は古墳時代以降のことと見られる。飛鳥時代以後,造仏の盛行により鋳造技術も著しく進歩した。鋳工は畿内を中心に山陽道,大宰府等の各地に散在していたが,律令制下,大蔵省被官の典鋳司および鋳銭司,諸寺院の鋳物所などに組織された。しかし典鋳司は実質的には機能せず,728年(神亀5)内匠寮に併合される。

 
◆世界大百科事典内の鋳物師の言及
【鋳掛屋】より

…鋳掛けは鋳物技術の一手法で,なべ,釜など銅・鉄製器物の破損を同質の金属,またははんだの一種である白鑞(しろめ)を溶かして継ぎ掛けることであり,その職人を鋳掛屋または鋳掛師といった。基本的には鋳物師(いもじ)から分化した専門職人である。その専業化は,白鑞の利用がひろまってきた17世紀になってからのことである。…
【金売吉次】より

…各地の伝説では,吉次を炭焼藤太の名とも,その子の名ともされ,あるいは黄金採掘で富を築いた富豪の名とも,その召使の名ともされ,一面では致富譚として伝えられ,他面では非業の死を遂げる没落譚として伝えられる。《平治物語》に義経の郎従堀弥太郎を金商人とし,《弁慶物語》に〈金細工の吉内左衛門信定〉〈腹巻細工の四郎左衛門吉次〉なる者が登場し,《平治物語》《烏帽子折》に義経元服の地とされる鏡宿が鋳物師(いもじ)村とも称されたことなどから,炭焼・鋳物師・金細工・金商人は相互に交流があって,これらの漂泊民が義経・吉次伝説の成長・伝播などに関与したのではないかと推測されている。吉・藤の字を名に持つ一群の人々や鋳物師たちは,話を好む芸能の徒でもあったらしいことは,さまざまな例があり,また《古今著聞集》興言利口の部などにうかがえ,《義経記》で牛若丸に奥州の歴史と状況を語る吉次の雄弁も,これらのことを暗示するものとも考えられなくはない。…
【釜座】より

…中世における鋳物師(いもじ)の座。鎌倉末の1289年(正応2)ごろには,京都三条町に釜座が成立している。…
【職業神】より

…だが丁場(ちようば)と呼ばれる石切場で石材採掘をする山石屋のあいだでは山の神をまつる風習があり,11月7日に丁場にぼた餅,神酒を供えてまつり一日仕事を休む。 冶金,鋳金,鍛鉄の業,すなわち鑪師(たたらし)や鋳物師(いもじ),鍛冶屋の神としてその信仰のもっともいちじるしいのは荒神,稲荷神,金屋子神(かなやごがみ)である。荒神は竈荒神,三宝荒神の名があるように一般には竈の神,火の神として信仰され,なかには別種の荒神として地神,地主神あるいは山の神として信仰される場合もあるが,鍛冶屋など火を使う職業の徒がこれを信仰することは,火の神としてまつられる荒神の性格からきたものであり,それには修験者や陰陽師などの関与もあった。…
【炭焼き】より

… 古い専業的な炭焼きは,鉱山の精錬や鍛冶の技術に付随して発達したものであった。大分県の山村で木炭をイモジと呼んだのも鍛冶とかかわりのある鋳物師(いもじ)にもとづいた。滋賀県の比良山系周縁には,鉄滓(てつさい)の散布する多くの古代製鉄遺跡があるが,それらの付近に〈金糞(かなくそ)松ノ木〉とか,〈九僧谷(くそだに)〉(金糞谷の転訛か)と隣接して〈炭焼〉という地名が残存するのも,これと無関係ではない。…
【天明】より

…天明鋳物では湯釜,梵鐘,鰐口が名高く,現存最古の天明鋳物は元亨元年(1321)銘の梵鐘(安房日本寺)である。天明鋳物師(いもじ)が文献上明らかとなるのは15世紀に入ってからで,座的組織をもって活動していた。その行動範囲は,下野はもとより関東一帯に及び,さらに畿内にまで広がり,15世紀中ごろには和泉・河内の鍬鉄鋳物師の営業権を脅かすほどにもなっていた。…
【梵鐘】より

…上・下帯の間を縦に4区に分けるのが縦帯で,そのうち2本は竜頭の長軸に合わせる。鋳物師の間ではこれを〈六道(ろくどう)〉と呼ぶ。上帯の下にある横長の4区画を乳の間(にゆうのま‖ちのま),または乳の町という。…
【由緒書】より

…備前国岡山の《池田家履歴略記》,出雲国松江松平家の《烈士録》,豪商の《三年寄由緒》,長崎貿易に関する《糸割符(いとわつぷ)由緒書》など,事例が少なくない。【金井 円】
[職人の由緒書]
 平安時代末期から鎌倉時代にかけて,鋳物師(いもじ)(灯炉供御人(くごにん)),生魚商人(津江・粟津橋本御厨(みくりや)供御人など),地黄煎売(じおうせんうり)(地黄御薗(みその)供御人)など各種の供御人は,その特権の保証されたときの時期と天皇を訴訟などの際に強調し,その系譜の確かなことを誇っているが,これは事実であることが多い。しかし室町時代以後,この特権を保証していた天皇の実質的な力が弱化するとともに,この由来はしだいに伝説化し,不正確になり,正確な文書にも〈天照大神〉〈神武御門(みかど)〉などが登場するとともに,こうした伝説に基づく由緒書が書かれ,偽文書(ぎもんじよ)が作成されるようになってくる。
 
◆紙(紙すきから転送)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%99#.E7.B4.99.E3.81.A...
紙(かみ)とは、植物などの繊維を絡ませながら薄く平(たいら)に成形したもの。日本工業規格 (JIS) では、「植物繊維その他の繊維を膠着させて製造したもの」と定義されている

紙の分類と用途

紙は、原料により和紙と洋紙に分類される。割合をみると、現在は木材を原料としたパルプから、機械を使って製造した洋紙が多くの割合を占めている。
和紙
詳細は「和紙」を参照

和紙は、7世紀初めまでに中国から伝来した紙が日本独自に発展したもので、ガンピ・コウゾ・カジノキ・ミツマタなどが原料である。和紙は現在でも手漉きで作られているほか、1900年代からは機械抄き和紙も製造されている。
洋紙
詳細は「洋紙」を参照

現在の洋紙は、主に木材を主原料に機械を使って製造する。日本では1873年に、欧米の機械を導入した初の洋紙工場が設立された。なお、木質紙が主流になる以前、洋紙の主原料は木綿のぼろや藁だった。
紙と板紙
詳細は「板紙」を参照

紙の中で、主に包装用に使われる厚い紙を板紙(ボール紙)という。
経済産業省による分類
さまざまな紙製品

経済産業省(旧通産省)では1948年以来、紙・板紙・パルプの品種分類を所管しており、「生産動態統計分類」で紙を分類している。2002年以降の分類は次の通り。
新聞巻取紙

新聞に使用される新聞紙のこと。「新聞用紙」とも呼ばれる。
印刷・情報用紙

印刷用紙は印刷されることを前提とした紙を、情報用紙は情報システム用の紙を指す。経済産業省の分類では、以下の5つに分類されている。

非塗工印刷用紙
表面を顔料などで塗工していない印刷用の紙。ただし、筆記性や表面強度を改善するため、デンプンなどの薬品が表面に塗布されることも多い。
化学パルプの使用割合により、上級印刷用紙(100%、上質紙)、中級印刷用紙(40%から100%、中質紙および上更紙)、下級印刷用紙(40%未満、更紙)に分類される。辞書本文などに使われるインディア紙などの薄葉紙も含まれる。
塗工印刷用紙
上級印刷用紙や中級印刷用紙を原紙とし、表面に塗料を塗布した印刷用紙。塗料の量などにより、アート紙・コート紙・軽量コート紙などに分類される。詳細は塗工紙を参照。
微塗工印刷用紙
1987年頃に登場した比較的新しい品種で、塗料の量が塗工印刷用紙よりも少ない。
特殊印刷用紙
色上質紙・官製はがきなどを指す。
情報用紙
コピー用紙、インクジェット用紙、ノーカーボン紙、感光紙、感熱紙などを指す。

包装用紙の例
包装用紙

印刷用紙より強度があり、包装紙や封筒に使用される紙である。

未晒し包装紙は漂泊されておらず茶褐色。重袋用両更クラフト紙、両更クラフト紙などの種類がある。晒し包装紙は晒しクラフトパルプが原料で、純白ロール紙、晒しクラフト紙などの種類がある。
衛生用紙

ティッシュペーパー、トイレットペーパー、紙おむつ、生理用品などの用途に使用される吸水性を持つ紙である。
雑種紙

工業用と家庭用に分類される。トレーシングペーパー、合成紙、絶縁紙、剥離紙、ライスペーパー(紙巻きたばこの巻紙)、書道用紙などが該当する。
生産・消費量
詳細は「製紙業」を参照

日本製紙連合会の調べによれば、2012年における世界の紙・板紙の生産量は、前年比0.4%増の約4億トン。国別生産量のトップは中華人民共和国で10,250万トン。次いでアメリカ合衆国の7,438万トン、日本2,608万トンは世界3位に位置している。国民1人当たりの消費量のトップはベルギーで約318kg。次いでオーストラリアの約252kg、ドイツの約243kgが続く。日本は約218kg。
紙の作り方
『天工開物』での竹紙の作り方
詳細は「製紙(英語版)」を参照

紙は、植物繊維から次の手順で作る。

植物繊維を取り出す
紙をすく
脱水・乾燥する

こうした紙の作り方は、古代中国で発明されて以来、基本的には変わっていない。中国で明末の1637年に書かれた『天工開物』では、竹紙の作り方を次のように記述している。

斬竹漂塘 - 竹を切り、ため池に漬ける
煮楻足火 - 十分に煮る
蕩料入簾 - 竹麻を簾(れん)ですく
覆簾壓紙 - 簾をひっくり返し、紙を積み重ねる
透火焙乾 - 火を通し、紙を焙り乾かす

植物繊維を取り出す

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