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2017年12月04日19:43

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川崎にサッカーが来た日

むかし、むかし。
川崎にサッカーチームがあった。
そのチームはスター選手を揃えて創成期のJリーグを席巻した、強いチームだった。
そのチームは多くのタイトルを獲得した。
しかし、テレビで観た満員のスタジアムは近所にあるはずなのに、何故か遥か遠い外国のようだった。
そのチームはホームタウンを想わず、川崎市民の心もまた、徐々にそのチームから離れていくのだった。

1999年、地域密着を掲げる川崎フロンターレがJ2リーグに参入した。
既にJリーグ熱が冷え切っていた川崎市民の期待感は大して高くなかったのを覚えている。
当時は、『富士通が川崎でJリーグのチームを創部したってさ』程度だった。

確か、2000年。
1年でJ1に昇格したフロンターレが夕方から川崎市内の主要駅で応援グッズとしてオリジナルの法被を配布するイベントがあった。
当時からサッカーが好きだった俺は配布時間の30分ほど前から登戸駅前に待機していたのだった。
配布時間、もちろん俺が一番乗りで法被をもらった。
しかし・・・
配布を待ち構えていたのなんて俺だけだった。
その後は誰も法被を受け取らず・・・
今ほどインターネットなどによる告知の周知が難しかった時代とは言え、当時の川崎のサッカー熱はかなり低かった。
そして川崎は1年で2部に降格するのだった。

2001年。あのチームはホームタウンを東京に移転、川崎からJ1のチームが無くなった。

2005年。
後に五輪代表を率いる関塚監督率いる川崎フロンターレがJ1に戻ってきた。
J2で力を蓄えた稀代のゲームメーカー、中村憲剛を中心とした怒涛の攻撃サッカーの武器に川崎の飛躍が始まったのはこの頃だった。
2006年には最終節で2位に浮上する躍進を見せた。
関塚監督の大量得点を奪う攻撃サッカーと地道な地域に根差した活動がいよいよ市民の心を動かし、川崎のサッカーチームととして認識され始めたのもまた、この頃だったと思う。

しかし・・・
川崎の第一期黄金時代とも呼べる時期だが、川崎の『シルバーコレクター』が始まったのもこの頃だ。
2007年、ナビスコ杯決勝でガンバに敗北。
2008年、J1は最終節まで優勝の可能性を残すも2位。鹿島が優勝。
2009年はナビスコ杯決勝で最大のライバル、FC東京に敗れ準優勝。
J1は終盤32節まで首位も『呪われた九州遠征』と一部で呼ばれる敗戦の末、2位。鹿島が優勝。
関塚監督は体調不良もあり、この年度で退任。
川崎の黄金時代は幕を閉じた。

関塚監督のヘッドコーチだった高畠監督、相馬監督と世代交代を進める難しい時期を経て2012年、風間監督が就任した。
風間さんと言えば俺にとってはフジテレビのサッカー解説でお馴染みの人だ。
無礼を承知で言うと、「風間さん、解説は面白いけど監督として指導できるのかなあ
。」。俺はそのように思っていた・・・
俺の考えが全くの見当違いだったことはすぐにわかった。
2013年、前線に加入した大久保を中心に目まぐるしくボールが動く華麗なパスサッカーは当時『未来のサッカー』と有識者の評価も非常に高い最先端のサッカーだった。

2016年。
攻撃に大島、ディフェンスに谷口と車屋、GKに韓国代表のチョン・ソンリョンが加わり攻守のバランスも劇的に良くなった。
3年連続得点王の大久保を中心とした攻撃サッカーは洗練され、この年の川崎は強かった。
2部構成だったリーグ戦は1stステージを2位で終了。
2ndステージも最終節まで優勝の可能性を残すも、ガンバに敗れて年間2位。
チャンピオンシップでも鹿島に敗れ。
天皇杯決勝でも鹿島に敗れ。
川崎を強豪クラブに育てた風間監督と、3年連続得点王の大久保がチームを去った。

そして、2017年だ。
鬼木監督がチームのOBとして初めての監督に就任。
大久保の位置に小林を、新たに加入した阿部は攻守に活躍、家長も夏以降実力を発揮。
華麗な攻撃を誇る風間サッカーに加えて、守備の安定感と粘り強さも飛躍的に高まったシーズンだった。
元旦の天皇杯、ACL、ルヴァン杯の度重なる悔しさを文字通りバネにしてJ1最終節。
今まで何度も行く手を阻まれてきた鹿島を逆転してJ1優勝を勝ち取った。
12017年12月2日は多くの川崎市民にとって生涯忘れられない素晴らしい日になったのだった。

長かった・・・
思い返してみると、本当に長かった。
今まで選手やチーム関係者が築いてきた川崎フロンターレの歴史についに、初のタイトルが加わった。

今まで、野球のロッテに大洋、あのサッカーチームが次々と本拠地から撤退している川崎市は『プロスポーツ不毛の地』と呼ばれてきた。
南北に細長い地形や住民の気質の違い、多くの住民が東京や横浜など別の都市に勤務している立地など様々な理由から来る『市民意識の低さ』が原因だとも言われている。
人気的にはスロースタートだったと思うフロンターレもずっと続けてきた地道な活動が実を結んで遂には行政を動かし、今や『川崎市の顔』と呼べるまでに成長を遂げたと思う。

我が家も川崎フロンターレを応援しているときが一番川崎市民だと思える、そんな川崎市民だ。
就職してから俺はなかなかスタジアムに行けていないんだけど、両親は定年退職して暇だから結構スタジアムに行っている。
快勝でご機嫌だったり、酷い負けっぷりで愚痴ったり。
勝ったらスポーツニュースを梯子したり、負けたらニュースを見なかったり(笑)
そんなサッカーなら当たり前の光景が、我が家でもたびたび見られる。

あのサッカーチームは多くのタイトルを獲得したが、そこには『サッカー』がなかった。
地域のサポーターが応援して、アツくなれる。
チームとともに笑ったり怒ったり。
そんな『サッカー』がなかった。

商店街にはフロンターレのペナントが飾られ、商店には試合の告知のポスターが張られる。
普段は仕事に家事に一生懸命でも、心の片隅ではいつも、川崎の試合の結果を気にしている。
市民の生活とちょうどいい距離にあるサッカー。絶妙に、いい距離感だ。

川崎フロンターレの頑張りでついに川崎にサッカーがやってきた。

これからもずっと、応援していきたい。

川崎のサッカーチーム、川崎フロンターレは川崎市民自慢のチームです。
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