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2017年01月18日10:33

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18940730 NO851 その七 在天津・日本帝国領事館の撤回始末書 (上)

18940730 NO851 その七 在天津・日本帝国領事館の撤回始末書 (上)
http://db.history.go.kr/item/level.do?levelId=jh_003_0040_0090
駐韓日本公使館記錄 3巻 四. 東学乱과 清日関係 三 (9) (9)日清両国おのおのがその公使館・領事館を撤去し公館並び在留臣民の保護を米国公使に委託のこと

[別紙]
文書題目 在天津帝国領事館撤回始末書

在天津帝国領事館撤回始末書

今回、日・韓・清交涉の事が始まって以来、直隷沿岸屯営地である北塘(ペイタン 江蘇省無錫市に位置していた)・蘆台(ルータイ 天津市内)・山海関(シャンハイコワン  秦皇島市。万里の長城の最東端)および小站などからしばしば大兵が韓地に向って出発したものがあるのだが、天津では人心は穏やかでほとんど平常と異なるところはなかったのだが、七月二十六日午後に至り前日における日・清両国海戦の警報が到達し始めて、内外官民の注意を惹き起したようだ。この時種々の巷説を持ちこむ者がいた。
曰(いわ)く、無頼の徒が今にも在天津日本領事館を襲撃しようとしている。
曰く、日本の武官とそのスパイを捕えよう。
曰く、日本の商人をやっつけよう。
曰く、何々。と
その話は一々信ずるに足らないとはいえ、あらかじめ万一に備えないわけにはいかないので、私は同夜大河平書記生を三井物産会社出張店に行かせ、主な本邦居留人と会って不時の事変に万一遭遇した場合の話し合いをさせ、一方、明治二十四年の清国の内地での暴徒騒動のおり、居留各国人の義勇兵用として英国工部局より借りていた元込銃十余丁を館内に具えこれで防御に役立て、かつこれを増置して日夜護衛を怠らなかった。
この数日、居留帝国臣民の男や女が事件の成り行きを気遣って来館し、その進退について指図を頼むものが絶えなかった。
そこで隨時警戒すべきは勿論であるが、すぐ公然と帰国や転地などを指令する場合には至らず、それはもとより各自の任意であることを告げ、なお七月二十五日次の諭達を発した。

達第一号
今般日・清両国より出兵の件に関し種々不穏の噂があり、また今後の成り行きが推測し難く、この際各自で相当の警戒・予備を怠ることができないことは申すまでもないことですが、当館より告示があるまでは、すべてその業務に就き進退について軽々しい行動にでないよう注意すること。
以上諭達致します。
明治二十七年七月二十五日
在天津 帝国一等領事 荒川巳次

七月二十六日以後は清国電報局では一切の暗号電信を取り扱わず、本省その他よりの通信が全く絶ってしまい、交涉事件の成り行きをうかがう方法がなかったのだが、前記開戦の報があったのでにわかに清人の激昂を招き、流言が百出し居留地内にあってさえ時には本邦人を疾視罵詈(シッシバリ*憎しみをもって見て口汚くののしること)するものが出てきて、一同一層警戒を強めている。

七月三十一日午後、居留地外にある帝国領事館の近くの支那街へ突然清人数十名がやって来て休息し、同夜この街で宿泊するようすがあった。
彼らがどんな理由で集まっているのか、これまでめったにない事なのでひそかに偵察してみたが、一方他の外国人男女、知人などしきりに帝国領事館を来訪して、
「危険迫っている。今夜密かに妻や娘を帝国領事館の近くにある外国ホテルに避けさせよ。そうすれば防衛上得策であろう」と語った。
ただし館外に送り出す方法は到底ないのでまだこれは実施していない。

また米国領事リードおよび訳官デニー両氏を始め、英国工部局書記ベルリングハム氏などは最も懇切に警戒防備を促したが、米国領事はこの夜英国領事プリストウ氏とともに李鴻章秘書官・羅豊祿を訪ね、清国政府がこの際日本官民を保護することが必要であることを面会して伝えたのだが、羅はすこぶる心配して既に海関道・盛宣懷から役人を密派して日本領事館を守衛させていた。

そこで緊急の際にはただちに発兵し弾圧の手続をとるだろうと答えているとのことが米国領事より通報があったのだが、私は万一の出来事のため、大沽引船会社理事W・H•フォーブス氏を訪ね、天津より汽船碇泊地 (当時白河が洪水に見舞われ汽船は天津まで進めなかった) である塘沽、あるいは大沽に至る小汽船を雇い入れるよう依頼したのだが、フォーブス氏は快くこれを承諾し取りあえず帝国領事館からわずかに一丁(*百メートル強)ばかりの船着き場に小汽船一艘を繋ぎ、汽罐に火を燃やして、いつでも帝国官民が暴徒を避けて天津を去る時便利なようにしていたが、同夜は無事に経過したのであった。

八月一日は早朝から来訪者が多く、正午頃米国領事は訳官とともに来訪して丁寧に説明し、
「危機がいよいよ切迫しているので、英国領事とも相談したのであるが、まず貴官の妻女を英船重慶号 (塘沽にあって上海へ向け出帆しようとしているもの)でて本国あるいは上海まで送ってはどうか」と話してくれた。

私も遂にこれに同意し、この日午後五時三十分、天津発の汽車で妻は女児二名と書生一名、召使二名を伴って塘沽(タンフー)に向ったのであるが、米国領事などは保証かたがた特に停車場まで同行した (昨日以来帝国臣民の重慶号に搭乗したものは男女三十余名に及んだ)。
その前、即ち午後四時過ぎ、在北京小村臨時代理公使より別紙写甲号の電報があり、そこで直ちに米国領事を訪ねてこれについて語ったところ、該国公使よりの訓令は未到達とのことで一先ず帰館した後、間もなく領事がやって来て、持って来た電訓に基づき協議の上、次の達文二通を広く本邦居留人に急示した。

達第二号
今般日清両国間の平和が破れましたので、在清国帝国臣民は本日より総べて米国政府、即ち、当港においては米国領事セリダン・リード氏の保護を受けよとその筋より通知がありましたので、これを心得てもらいたい。この件相達します。
明治二十七年八月一日
在天津 帝国一等領事 荒川巳次

号外
当帝国領事館は本日限りで閉館する。
以上相達します。
明治二十七年八月一日
在天津 帝国領事館


また清国政府雇の外国人その他英国工部局書記など日頃親交のある者から日本人の戸外における挙動に関し私に注意したことがあった。時に高陞号で難を逃れた清兵四十余名、昨七月三十一日に天津に帰着、海軍医院に入り人気(ジンキ *群集の熱気)がちょうど激昂している時であるので、その助言は適切だと信じ、次の半公文回章を発して居留人がおこたって自ら被害を招かないようにさせた。

昨日以来外国人たちが来館し、「この際貴国人(*日本人)は挙動もっとも慎重にして、なるべく当国の人心を激昂させないことが得策であり、現に乗馬して勝手気ままに動いている日本人を目撃しているが、これらも多少当国の人心を激昂させる一因である」と注意して来ています。
これは私も適切なる注意が必要と考えますのでこの件申進ます。 敬具
明治二十七年八月一日
荒川巳次







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