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2017年01月08日17:32

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 【質問】 山鹿素行って誰?(下書き)

 【質問】
 山鹿素行って誰?
Ki YAMAGA Szokou ?

 【回答】
 赤穂浪士吉良邸討ち入りの際に山鹿流陣太鼓が打ち鳴らされたという話はただの創作だが,山鹿素行は実在する儒学者・軍学者であり,山鹿流兵法の祖とされる.
 1622年,陸奥国会津にて浪人・山鹿貞以の子として生まれ,1630年,9歳にして林羅山門下生となり,朱子学を学ぶ.
 15歳からは小幡景憲,北条氏長の下で軍学を,廣田坦斎らに神道を,その他,歌学など様々な学問を学んだ.
 1662年頃から朱子学に疑問を持つようになり,新しい学問体系を研究.
 そして朱子学を批判したことから播磨国赤穂藩へお預けの身となり,そこで赤穂藩士の教育を行う.
 赤穂藩国家老・大石良雄も門弟の一人であり,赤穂事件以後,山鹿流には「実戦的な軍学」という評判が立った.
 1675年,許されて江戸へ戻り,その後の10年間は軍学を教えた.
 1685年,死去.

 素行は著書『中朝事実』において,皇統の一貫を根拠に,「日本こそ万国に卓越した中華・中国と呼ぶに相応しい国である」との日本主義を主張.
 また,従来の「武士道」に対して素行は,
「生産に従事しない武士の職分は,人倫の道を実現し,道徳の面で万民のモデルになるところにある.
 いやしくも武士たるものはこの職分を自覚し,人倫の道の実現に邁進する勇気をもたねばならない」
と「士道」と説いた.

 上述したように,素行は赤穂藩士の教育を行ったため,こうした
「皇統バンジャーイ \(^o^)/」
「士道バンジャーイ \(^o^)/」
という考え方が,赤穂藩士の中に広まっていたらしく,これが赤穂事件に結びついたのではないかという見方もある.

 また,幕末の吉田松陰らにも「皇統バンジャーイ \(^o^)/」という考え方は引き継がれた(松陰の家は山鹿流兵学を家学としていた)が,素行が他方で武家政治の必然性を説いた点は無視され,『中朝事実』だけが尊皇愛国の書として持て囃された.

 【参考ページ】
http://www.ac.auone-net.jp/~oknehira/YamagaSokouNoShisou.html
http://www.ne.jp/asahi/village/good/YamagaSoko.htm
https://kotobank.jp/word/山鹿素行
http://www.river.sannet.ne.jp/ako-soko/panelyousi.htm

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