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2017年01月02日06:51

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悪を滅するを功と云ひ、善を生ずるを徳と云ふなり

1/1は0時から元朝勤行、10時に広布唱題会、
14時に初参りと、自宅とお寺を
行ったり来たりしながら1日まったり過ごしました。

合間に子どもたちと公園で凧上げをしましたが、
強風でもなく無風でもなく、
ちょうど良い微風が吹いて
絶好の凧上げ日和でした。

お寺で頂いた、今年の日めくり御聖訓。

一日(ついたち)の御文は、御義口伝の

「法師功徳品四箇の大事 
第一 法師功徳の事」

より。

フォト


”悪を滅するを功と云ひ、善を生ずるを徳と云ふなり”


仏教は、
「諸悪莫作 修善奉行」(悪を行わず、善を行え)、
「破邪帰正」(邪義を破り、正義に帰せよ)
を、明確に説いた教えです。

そもそもヒトを人たらしめているのは、
「正義」の観念があるからです。

人は、何かしらの「正義」を信じながら
日々、社会を形作って生きているのです。

そして「信じる」という行為は、
本質的に宗教的なものと言えます。

あらゆる道徳・倫理も、法律・社会思想も、
その根源を尋ねれば
宗教的な「正義」に行き着きます。

宗教嫌いの人が「宗教抜き」で
道徳を語ろうとしても、たとえば
「なぜ人を殺してはいけないのか」
というような問いにすら、誰一人、
まともに答えることはできていません。

一方、ヒトが人を殺したりするのも、
やはり「正義」の観念があるからです。

動物が同族を故意に殺すケースは、
共食いなどの極限状況を除けば、
滅多にありません。

人間は「正義」の観念があるから、
ついつい、やり過ぎてしまうのです。
命まで奪ってしまうのです。

殺す者は、その瞬間はそれが
「正義」と信じて行っているのです。

だから、ヒトが善く生きようとするならば、
まず「何が正義で何が邪なのか」を
きちんと見極めることが必要です。

善悪、正邪の区別にトコトン厳しいのが
仏教本来の立場であって、

「仏教ならなんでも良い」
「宗教ならなんでも良い」、

あるいは

「宗教でなくても、何かしら道徳的なことさえ
説いていれば、教育勅語だろうが、
江戸しぐさだろうが、なんでも良い」

などといったデタラメな
価値相対化のニヒリズムとは
もっとも対極にある教えなのです。

”法華経の説の文の如く修行するを六根清浄と意得べきなり”

仏教は、人生の意味・人生の目的は、
無常の世の中で煩悩を追求することではなく、
あくまでも「六根清浄を得ること」であり、
あるいは「仏に成ること」だと説きます。

釈尊は晩年の八年間に法華経を説法され、
そこではじめて

「人間誰でも成仏できる」

という真実を明かされました。

他のお経にはそういう教えはありません。
必ず、成仏できる者とできない者の
差別・区別が留保されています。

法華経こそが、平等の教えを徹底した
仏教の最高経典と目される所以であります。

では、そもそも仏とは何なのか。
煩悩をすべて捨てた
超人に変身しなくてはならないのか。

摧尊入卑 ( さいそんにゅうひ ) を
畏れながら私の所感を言えば、これは
「変身ヒーロー」と、「変身前の姿」との関係に、
少し似ていると思います。

たとえば、「プリキュア」のような
変身美少女アニメにせよ、
あるいは「仮面ライダー」のような
特撮ヒーローにせよ、
美しく飾った姿でパワフルに戦う
「変身後の姿」こそが「ヒーロー」だと、
観る人は誰しもがそう考えているでしょう。

しかし、ひねくれ者の私は、時々思うのです。
変身後の姿というのは、あくまでも
「仮の姿」ではないのか、と。

たしかに、「変身」によってヒーローは
強大な「力」を発揮できます。
でも、ヒーローが戦う悪の存在もまた、
強大な「力」を持っています。

「力」は必ずしも「正義」ではありません。

「力」それじたいは、使う人によって
善にも悪にもなるものなのです。

「ヒーロー」が「ヒーロー」たる条件、
「ヒーロー」の本質とは何か。

それは、「力」ではない。

ヒーローの本質は、
「正義の味方」に徹しよう、
という「志」ではないでしょうか。

我が身を差し置いて正義を追求し、
善く生きたいと思う「志」。

それは、「変身前の姿」と
「変身後の姿」の、一体どちらに
属するものでしょう?

言うまでもなく、変身前の
生身の人間の姿の中に、
その心はもともと有ったのです。

ヒーローたちの変身前と
変身後の姿は一心同体ですが、
変身前こそが「正義」の志そのものの姿であり、
変身後の姿は、どちらかというと
「力」の側に傾いているように感じます。

変身前の、無力で悩める凡夫が
悪戦苦闘する姿の中にこそ、
真の「ヒーロー」があるのではないかと、
私はそのように考えます。

吾が日蓮正宗の仏身観も
これに通じる所があって、
それゆえに私どもは、
久遠実成の超人・釈尊よりも
宗祖日蓮大聖人こそを御本仏、
本来の仏様のお姿と拝している訳です。

すなわち、

”法華経の説の文の如く修行するを六根清浄と意得べきなり”

煩悩にまみれた我々凡夫が、
縁に依って発心して、
法華弘通の修行に励む。

そうした泥臭い姿の中にこそ、
「六根清浄」がある。

仏道修行を切れ目なく続けていく姿、
それじたいが既に成仏である。

宗祖日蓮大聖人は、私たちにそのように
教えて下さっておられるのであります。

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