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2016年11月17日00:50

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 【質問】 ハンガリー1956年革命(ハンガリー動乱)における最初の武装蜂起について教えられたし.(下書き)

 【質問】
 ハンガリー1956年革命(ハンガリー動乱)における最初の武装蜂起について教えられたし.
Kérem, modja el a 1956-os forradalomban fegyveres felkelés kezdete.

 【回答】
 最初の戦闘は1956年10月23日20時30分頃,ブダペシュトのラジオ放送局前で,秘密警察AVOと,デモ隊の側についたハンガリー軍兵士との間で始まった.
 翌日午前2〜3時にはソ連軍の2個機械化師団がブダペシュト市内に侵入し,その後も増援部隊が送られたが,市街地においてヒット・エンド・ラン戦法に徹するブダペシュト市民の前に,不慣れな治安維持戦を強いられた.
 補給物資も窮乏する中,クレムリンではハンガリーに対する譲歩の姿勢を見せるため,10月28日13時20分をもって戦闘を停止した.


 そもそも戦闘が始まったのは,次のような経緯であるようだ.
 10月22日15時,ブダペシュト工科大学中央講堂に5千人以上が集まり,後にこの革命のマニフェストとなる「16項目」要求を作り上げた.
 そして,翌23日にはデモ行進を行うことを決めた.
 ドナウ川の反対側では,ブダペシュト大学教養学部が大集会を開いており,彼らもデモに賛成した.

 ラーコシの後継者でスターリン主義者のゲレー・エルネーは,ブダペシュトが危険な一発触発の状態にあることに怯え,12時53分,ラジオを通じて「あらゆる集会の禁止」を通告したが,警察に「平和なデモを武力で制止する」気がないことが分かったため,23日02:23,ラジオは音楽を中断し,デモの継続が認められたことを伝えた.

 23日15時,デモ開始.
 16:30までにヨージェフ・ベム広場は2万5千人のデモ参加者でいっぱいになり,さらに数千人が隣の堤防へ溢れ出た.

 20時数分前には,にはデモ行進は20万人規模に人数を増やしながら,国会議事堂前広場に到達した.
 一方,一部のデモ参加者数千人は18時頃,ブダペシュトのラジオ放送局に向かい,自分たちの要求を放送するよう,ラジオ局に要求した.

 秘密警察AVOはラジオ局でトラブルがあるだろうことを予想しており,オルバーン・ミクローシュ警察大佐指揮の下,兵士とAVO隊員を含む260〜280名で警備をしていた.
 19時ごろ,放送局ディレクター,ベンケ・ヴァレーリアは,群衆の要求を呑むふりをしたが,実際には何も放送しなかった.
 ラジオは「16項目」要求ではなく,ゲレーの演説を放送した.
 ゲレーはデモの学生を暴徒呼ばわりし,「敵意を抱く分子」への譲歩はない,と断言した.
 この放送にデモ参加者は激怒し,英雄広場の巨大なスターリン像(この辺にあった)を重機で破壊し始めた他,放送局ではディレクターに騙されたことに気付いたデモ参加者が,局の窓にレンガや小石を投げつけて窓を割り始めた.
 AVO隊員が催涙弾を投げつけ,放水し,そしてデモ隊の頭上に威嚇射撃をした.
 デモ隊は一時退散したが,数分後には群衆は再結集して,建物の正面へ殺到してきた.
 警察は群衆に解散を要請したが,群衆が応じないと見ると,引き揚げてしまった.
 建物の中にいたAVOのフェヘール・ラヨシュ少佐は,パニックになり,部下にシャーンドル・ブローディ通りの群衆を排除するよう命じた.
 AVO隊員がデモ隊の排除を始めた時,群衆に死者が出た.
 誰が発砲したが不明だが,AVO隊員であろうことは間違いない.
 さらに一斉射撃があり,3人が死傷者した.

 数分後,道を挟んでラジオ局に隣接している国立博物館の,庭に入る通用口に救急車が到着した.
 デモ参加者は怪我人を救急車に運び入れようとしたが,救急車からは重武装のAVO隊員12名が飛び降りて館内に入った.

 ほぼ同じ頃,ハンガリー陸軍の部隊が到着し始めた.
 強硬派のスターリン主義者であるヘジ・ラースロー少将(参謀次長)が,ラジオ局を解放し,治安を回復し,デモ隊を粉砕せよと兵士に命じたからである.
 だが,現場に到着した部隊の指揮官は,デモ隊に発砲するなと命令した.
 何人かの兵士が,群衆の中に入り,AVO部隊と戦った.
 兵士達の殆どは,どちらにもつかず,兵舎に戻ったが,武器弾薬を群衆に渡した.
 コパーチ・シャーンドル警察本部長は,警察の武器保管所を解放した.

 ラジオ局発砲のニュースは,ブダペシュト中に伝わった.
 22時ごろ,ショクロシャーリ通りにある,市の主要弾薬廠の一つが襲撃された.
 市内の軍事学校,ズリーニとペテーフィの2校は,武器を送った.
 ブダペシュト最大の工業地帯であるチェペルの連合ランプ工場は,武器工場の代役としてよく知られており,その夜遅く,労働者は少なくとも千丁のライフルを工場から持ち出し,ラジオ局行きの大型トラックに積み込んだ.

 ラジオ局では戦闘は夜半まで続き,フェヘール少佐とAVO隊員4人が殺害され,多数が負傷,60人が捕虜となった.
 武装蜂起側では16人が射殺され,60人が負傷.
 夜明け前にラジオ局は炎上し,反乱者の手に落ちた.

 24日02〜03時,ソ連軍がブダペシュト市内に侵入した.
 セーケシュフェヘールヴァールのソ連軍司令部に基地を持つ,第2親衛機械化師団および第17親衛機械化師団.
 また,オーストリア国境にも部隊を送り,国境を閉鎖した.
 しかし,ソ連軍のT-34戦車は,市内の橋や広い交差点を占拠することはできても,ブラペシュトの路地へ入っていくことはできなかった.
 ブダペシュト市民はヒット・エンド・ラン戦法に徹し,小銃や火炎瓶でソ連軍に一撃加えると,素早く身を隠した.
 実際に戦闘に加わった反乱グループは数百人規模だったが,すでに手に入れていた武器弾薬に加え,市内各所の警察署から武器を入手し,防備の手薄な武器店を襲撃した.
 電話局2か所,ブダペシュト放送局ビル,『自由なる人民』社オフィス,東駅が反乱グループに占拠された.
 ブダのセーナ広場では,小グループがバリケードを構築していた.
 ソ連軍は放送局を奪い返そうとしたが,数時間の戦闘の結果,それに失敗した.

 午前中までに,国立劇場付近,バロシュ広場,コルヴィン映画館およびその道路を挟んで向かい側にあったキリアーン兵舎(旧マリア・テレジア兵舎)が,反乱グループの主要拠点となった.
 ハンガリー陸軍のマレーテル・パール大佐は,AVOビルを警備していた機械化部隊から戦車5台を借り受け,キリアーン兵舎に合流した.

 夜になると,ソ連軍戦車は保全と警戒の隊形に戻り,街頭巡回をやめた.
 24日一日で,ブダペシュトでは推定3000人の反乱者が武器をとり,約80人が死亡,450人が負傷した.
 一方,ソ連軍は死者20人,負傷40人.
 戦車4台,装甲車4台が大破した.

 蜂起はハンガリー全土に波及.
 デブレツェンではゼネストにより,輸送,電気,ガス以外の全てが機能を停止.
 チェペルでは,労働者が工場を占拠した.
 その他多くの町で,人々は共産主義に背を向けた.

 【参考ページ】
ヴィクター・セヴェスチェン『ハンガリー革命1956』(白水社,2008), p.158-309
https://hu.wikipedia.org/wiki/1956-os_forradalom#A_fegyveres_felkel.C3.A9s_kezdete
https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%92%D0%B5%D0%BD%D0%B3%D0%B5%D1%80%D1%81%D0%BA%D0%BE%D0%B5_%D0%B2%D0%BE%D1%81%D1%81%D1%82%D0%B0%D0%BD%D0%B8%D0%B5_1956_%D0%B3%D0%BE%D0%B4%D0%B0#4_.D0.BD.D0.BE.D1.8F.D0.B1.D1.80.D1.8F
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