mixiユーザー(id:2841369)

2017年09月26日23:33

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訂正

*たまたま例にとられているのは外界の知覚と身体感覚と自ら身体を動かす能力の三つだが、第二基準との関係をはっきりさせるためには、記憶の例を入れたほうがよかっただろう。第二基準は同じ私であり続けるための基準であって、その中核をなすのは記憶の内容なのだが、第一基準において不可欠なのは(その内容はどうであれ)ともあれある統一的な記憶が(なぜかそれだけが)現に与えられてあるということである。記憶のもつこの二面性(その内容となぜかただそれだけが現にあること)が二つの基準を繋いで、私を世界に受肉させている。

 また、この基準は「その時点において世界が現実に見え、……」などとすることによって〈今〉の第一基準に作り替えることができるが、その際、「見える」「痛い」といった心的述語が使われる必要はなくなるが、かわりに現在形を使わざるをえなくなって、表現上トートロジカルな主張になってしまうという問題がある(〈私〉の場合は動詞に人称語尾変化があっても第三人称が使えるが)。この種の問題は「分析哲学」の問題としては興味深い論点である。もっと事象内容的な問題としては、〈今〉には第二基準にあたるものがないということがある(A変化は第一基準の内部に組み込まれうるであろうから、むしろ強いていえば、他者と〈今〉を共有できているといえるための基準がそれになるかもしれない)。

の箇所は、「また、…」ではじまる後半は前半の*が付いた部分と切り離されていて、活字の大きさも大きいので、本文であるかのように読めますが、注の続きです。
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