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2016年10月01日14:34

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長谷川豊と障害者大量殺人をつなぐもの

■「殺せ」記事の長谷川豊氏、読売テレビ系情報番組も降板
(朝日新聞デジタル - 10月01日 09:28)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=4219876

自分勝手に「殺していい人間」を決定し、殺人を実践したのが先日の障害者大量殺人犯であり、「殺せ」と煽っただけに留まったのが長谷川豊氏というわけだ。論理構造としては両者は完全に一致する。

長谷川氏はセンセーショナルな見出しによって、より多くの人に主張を読んでもらいたかったという意図を持っていたようだが、自分が見出しに込めた「毒」がどれほど暴力的で危険な種であったか分からないようではジャーナリストとして落第である。やっていることは低俗なヘイトスピーチと変わらない。

なるほど長谷川氏の主張の本丸は、「膨張する社会保障給付費の抑制」にあったのだろう。それは私も疑わない。だが、その解決策が「自堕落な人工透析患者を殺せ」では、箸にも棒にもかからない暴論扱いされて終わりである。現にそうなっている。

しかもこういうタイトルをつければ、主張の本丸よりもそのタイトルの是非に論点が移ってしまう。それが本人にとってはただのアオリであったとしても関係ない。本来の指摘や主張が妥当なものであればあるほど、そのような燃料投下にしかならないタイトルはつけるべきではないのだ。それができなかった長谷川氏は、結局のところ自己の主張を大切にしない、ただのプロパガンディストなのである。

障害者大量殺人が起こったとき、私は「障害者抹殺論の本質」という日記の中で、殺人犯が採用する「人間の生命の価値や人生の価値を本人以外の人間が判定し、「こいつは生きていてよし、こいつは殺すべし」と決定することを許すような社会システム」について、次のように指摘した。

「こういうシステムは、たとえ最初に障害者から始まったとしても、必ず拡張が始まり、次々と抹殺対象を見つけ出す。それはなぜ障害者を抹殺する必要があるのかを問うと分かる。障害者抹殺論というのは、煎じ詰めれば障害者が社会の負担であり、実益が何もない存在だという評価に根ざしている。したがって、同じ評価が可能な存在を見つければ、障害者でなくともターゲットになりうる。 」

長谷川氏はまさに「同じ評価が可能な存在を見つけ」たわけである。それは自堕落な生活を送って(そう長谷川氏に認定され)、人工透析という形で「社会に負担」をかける人間たちだった。

こういう論理は一度でも先例を作れば、簡単に応用・拡張されていく。それは論者の本来の意図などはるかに超える社会作用である。

こうした長谷川氏の煽りに対して社会の側が強烈な反発を見せていることは、社会の正常さを表していて、まだしも幸いというべきだろう。長谷川氏の煽りに乗って、「そうだ殺せ!」と同調した場合が最悪の展開だからである。

長谷川氏はこうした反応を、「言葉狩り」「悪質な言論弾圧」「何の理解力もない小学生レベルのバカ」と口を極めて罵るが、この人はどういう社会を望んでいるのだろうか。自分の煽りに乗って、「殺せや殺せ」の大合唱が起こることを望んでいたとでも言うのか。

確かに面白半分の便乗も多くいることは想像にかたくない。しかし、自分の主張に含まれる毒と、世間の反応に含まれる正常な感性を読み違えたままでは、長谷川氏自身が望む「みんなで侃々諤々、議論」などできようはずもない。

再び、私自身の日記「障害者抹殺論の本質」で書いた内容を引こう。

「攻撃しやすい対象を見つけて、インチキな社会正義をふりかざして、排除の論理を展開する。こういうことが社会に広まると、いつの日か自分自身が排除の対象として発見され、最悪の場合、抹殺される。」

これが長谷川氏が見出しに仕込み、自分自身でも認識できなかった「毒」の正体である。誰も抹殺されない社会を目指すのが正常な感性であり、自分の望む社会のために「殺していい人間を決めて、殺す」のが長谷川氏の論理なのである。
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