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2016年08月20日00:39

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伊牟田伸一さんより

中国がまた尖閣諸島を狙って大挙押し寄せて来ました。
皆さんは弱腰外交は戦後の話で戦前の大日本帝国は強気だったと思っていますよね?
 
 それはまったくの勘違いです。戦前の日本も常に弱腰外交でした。尼港(にこう)事件(1920)から共産党による悲劇が続きます。そしてお花畑外相が現れます。戦後も活躍した幣原喜重郎です。幣原外交を皆さんはご存知ですか?

S2年(1927)〜S3年(1928)にかけての「蒋介石の北伐」から悲劇が始まります。中国全土を制圧するために満洲を目指した蒋介石軍は北進を開始します。

(そこで北伐軍に入り込んでいた共産党員は日本・イギリス・アメリカの領事館や学校、企業、外人住宅を襲って、虐殺、暴行、掠奪を行なった。そのうち女子供を含む数百名の一般市民までもが略奪に加わった。女性への暴行、人体の損壊、掠奪はすさまじいとしか言いようがなかった。この事件を映画化したのが、スティーブ・マックィーン主演の「砲艦サンパブロ」である。南京の暴徒化した民衆が各国領事館を襲ったり、企業を襲って、「外国人を皆殺しにせよ」と叫びながら青龍刀を振り回して、外国人の首を切り落とすシーンが描かれている)

 皆さんこの映画の話で思い当たることはありませんか?今でも中国のやっていることは一緒ですよね。
タガが外れると何をするか解らない恐さが今でもあります。

1927.1   漢口・九江イギリス租界奪取事件(1927年1月)
       2万2千人の軍隊動員して報復(イギリスはキッチ リ報復を行っています)
       日本政府も誘われたが幣原喜重郎外相が断固拒否 (この弱腰が満洲事変に繋がります)
1927.3   第二次南京事件(南京で虐殺、暴行、略奪を行った。米英は即座に報復で南京城内に砲撃、日本も誘われたが「支那を刺激してはならない」と外務省の訓令(幣原外交)に従って日本海軍駆逐艦は避難しようとする日本居留民を見捨てて逃げ帰った。
幣原外交とは平和外交というより軟弱外交です。

日本が攻撃しないと知ると、支那兵は日本領事館に押しかけ、暴行と掠奪を行なった。このとき、領事夫人は27人に輪姦され、30数名の日本人婦人は少女に至るまで陵辱せられた。その際、日本領事館員も日本軍人も、避難してきた日本人居留民も、まったく抵抗しなかった。海軍陸戦隊は武器も持たずに領事館にいたのだ。のちに全員が揚子江にいた軍艦に収容されたが、日本領事館の警備を担当していた荒木海軍大尉は任務を果たせなかったとして後に自決した。

日本外務省は事を荒立てないため、広報に「わが在住婦女にして陵辱を受けたるもの一名もなし」などとまったくの嘘を書いたため、南京居留民は激高した。彼らは居留民大会を上海で開き、支那軍の暴状と外務官憲の無責任を同胞に訴えようとしたが日本外務省はそれを禁止した。これが幣原外交だったのだ。
外国人の死者はさほど多くなかったが、外交施設である領事館を襲ったことは非常に重要である。

幣原外交大正13年(第一次1924.6〜1927年) 
幣原外交昭和4年(第二次1929〜1931)

理想主義的な外交原則を掲げて再び登場した幣原外交だったが、支那は決して幣原の善意に答えようとはしなかった。むしろ幣原外交の時代になり、支那は安心して着々と革命外交を実施するに至った。幣原は一度失敗したのだから二度目には謙虚な気持ちで反省すべきだったのに、強情で自負心ありすぎて反省できなかった。

【教科書が教えてくれない歴史】 尼港事件
https://www.youtube.com/watch?v=YasC7AD37HM
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