mixiユーザー(id:48382454)

2016年07月02日00:18

232 view

7月2日の日記

今日の出来事:626年−玄武門の変、1368年−南北朝動乱:武蔵平一揆の乱、1582年−山崎の戦い(天王山)、1868年−北越戊辰戦争:朝日山の戦い、1931年−万宝山事件、1945年−第二次世界大戦:呉市街空襲、下関空襲、1950年−金閣寺放火事件

今日は、玄武門の変です。唐の初代皇帝・高祖(李淵)は長男・李建成を立太子にしましたが、隋討伐で戦功を挙げた次男・李世民の名声が高まったため、「天策上将」なる称号を与えて東宮に匹敵する「弘義宮」を建築しました。皇太子の地位に不安を持つようになった李建成は、李世民から礼遇されている謀臣である房玄齢と杜如晦を讒言により排除しました。その後、李建成の幕臣・魏徴や弟の李元吉が李世民暗殺を建議しました。この計画を事前に察知した李世民は、讒言によって遠ざけられていた房玄齢と杜如晦を道士に変装させて自邸に呼び寄せて対策を協議し、李建成の部下で長安北門である玄武門の守備隊長である常何を買収し、「玄武門の変」を起こしました。当日、李建成は宮中に参内する事になっていました。緊迫した情勢の中、警備兵に守られていた李建成でしたが、宮殿内部は符籍を有した者しか入る事が許されていませんでした。少数の供者を引き連れて中に入ると、李世民側に寝返っていた常何らが一斉に切りかかりました。その中、李建成の幕臣である馮立と、皇太子派の李元吉の幕臣である謝叔方が奮戦し、李世民の部下である呂衡の首を上げるなどの抵抗を示しましたが、李建成と李元吉は殺害されました。これにより後継者争いに勝利した李世民は父である高祖から譲位を受け、第2代皇帝・太宗として即位しました。こうして太宗(李世民)は唐王朝の基礎を固める善政を行い、中国史上最高の名君の一人と称えられる事になります。

次に、南北朝動乱:武蔵平一揆の乱です。「平一揆」は、平安時代からの在庁官人である武蔵の秩父氏一族、相模の中村氏一族、常陸・上野の平氏などが血縁を軸に集結した関東有数の国人一揆の事です。彼らは地縁を活かして地元の地侍を一揆に取り込んだ結果、大兵力を動員する事が出来るようになりました。代表的な人物は、河越直重や足利基氏の学友・高坂信重で、「鎌倉府」が上記の三国を支配するために重要な役割を果たしました。「観応の擾乱」で足利尊氏に付き、その後も「鎌倉府」初期の支配体制「薩埵山体制」の一翼を担いました。秩父氏の遠縁で懇意だった関東管領・畠山国清の指揮下、足利尊氏やその息子で初代鎌倉公方・足利基氏のために数々の合戦でその姿を見せました。1352年: 武蔵野合戦、135年:入間川御所開設、足利基氏の親衛隊を務め、河越直重が相模守護職に就任、1359年:畠山国清に従って上洛、摂津天王寺で仁木義長を破る。しかし、足利尊氏が死去すると事態は変化しました。足利基氏は、自立を目指して「薩埵山体制」の中心的存在である畠山国清や「平一揆」と距離を置き始めました。1362年、畠山国清が足利基氏に討伐されました。その際、「平一揆」は自分たちの総大将だった人物との戦いに駆り出されました。さらに、畠山国清の後任は「観応の擾乱」で足利直義方につき敗北し、信濃に追放された上杉憲顕でした。かつての敵を怖れた上野・越後守護代の芳賀高名は、鎌倉へ向かう上杉憲顕を討とうとしましたが、足利基氏の追討を受けて武蔵岩殿山・苦林野の合戦に敗れ、主の宇都宮氏綱とともに失脚しました。この戦いで足利基氏方として働いた「平一揆」でしたが、復権した上杉憲顕はその勢力削減に動き始めました。1363年、河越直重は相模守護職から解任、高坂氏も伊豆守護職の地位を脅かされました。1367年、鎌倉公方・足利基氏と室町幕府将軍・足利義詮が相次いで死去し、権力の空白状態が生じました。足利基氏の後継者・氏満は幼少で、後見する上杉憲顕が再び「平一揆」の勢力削減に動きました。1368年、上杉憲顕が上洛した隙を狙って「平一揆」の河越直重を中心とする「武蔵国の平一揆」が蜂起しました。河越直重を大将に、一族の高坂信重や江戸氏、高山氏、古屋谷氏、村山党の仙波氏、山口高清、金子家祐など地元の武士が、居城・河越館に籠もりました。江戸牛島(現・墨田区)には別働隊を置きました。これは、「鎌倉府」と上杉憲顕の本拠地・上野国を南北に結ぶ鎌倉街道を封鎖し、その連携を絶とうとしたものでした。これに乗じて、下野国では宇都宮氏綱が、越後国では南朝方の新田義宗や脇屋義治が挙兵しました。一方で中村氏を中心とした「相模国の平一揆」は上杉方につきました。上杉憲顕はすぐに帰国せずに政治工作を進め、幕府を味方に付けました。上杉朝房は足利基氏の後を継いだ氏満(10歳)を擁して河越に出陣しました。上杉憲顕や武田氏、葛山氏らの軍勢を動員し、7月3日の河越での合戦で反乱は鎮圧されました。河越での戦いに勝利した鎌倉・上杉軍は、続いて越後で挙兵した新田義宗らを討伐するため北上しました。上野で両軍は衝突し、激戦となりましたが下野の小山義政らが鎌倉方に加わったため、兵数に劣る新田勢は壊滅しました。新田義宗は討ち取られ、脇屋義治は出羽国に敗走しました。その後も鎌倉軍は引き続き、北関東における南朝勢力の掃討を進めましたが、上杉憲顕が足利の陣中にて病没しました。河越直重らは「南朝」の北畠顕能を頼って伊勢国へと敗走し、領地はすべて没収されました。その他の参加者も領地を減らされて失脚、「武蔵平一揆」という連合体は歴史上から姿を消す事になりました。討伐を免れた「相模国の平一揆」もまた低迷と解体への道を辿り始めました。ライバルを倒して鎌倉公方の直轄領を支配下に収めた上杉氏は、室町期の関東において圧倒的な力を持つようになりました。

その次に、山崎の戦い(天王山)です。「本能寺の変」を受け、「備中高松城の戦い」から引き返してきた羽柴秀吉軍が、摂津国と山城国の境に位置する山崎で、織田信長を討った明智光秀の軍勢と激突した戦いです。まず、羽柴秀吉の動きです。
6月21日:本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれました。その時、羽柴秀吉は備中高松城を包囲していました。
6月22日:羽柴秀吉は、「本能寺の変」の報を入手しました。
6月23日:備中高松城の守将・清水宗治の申し出を受諾し、清水宗治の自刃を見届けるとすぐに撤兵しました。
6月24日:羽柴秀吉軍、「中国大返し」の開始です。
6月25日:秀吉軍は、沼城(岡山城の東方)に入り、ここに宇喜多勢を残しました。
6月26日:秀吉軍は、姫路城に入りました。
6月27日:この日、秀吉軍は姫路城にて休息しました。
6月28日:浅野長政を留守居役として姫路に残し、残り全軍を率いて姫路城を進発して明石へ、別働隊を組織して明石海峡より淡路島東岸に進軍し、明智方の菅達長(菅平右衛門)の守る洲本城を攻撃して落城させました。
6月29日:秀吉軍は、明石を出発して兵庫で休息しました。
6月30日:摂津・尼崎へ到着し、秀吉は剃髪しました。
7月1日:秀吉軍は尼崎から西国街道をそのまま進んで富田(大阪府高槻市)に着陣すると、有岡城主・池田恒興、茨木城主・中川清秀、高槻城主・高山重友(右近)ら摂津の諸将が相次いで秀吉陣営に参じました。中国方面軍司令官である秀吉が大軍を率いて無傷で帰還した事で、それまで去就をためらっていた諸勢力が一気に秀吉方についたのでした。
一方、明智光秀の動きです。
6月21日:「本能寺の変」を起こして織田信長を討ちました。その後、安土城へ向かいましたが山岡景隆に瀬田橋を破壊されたため、坂本城へ戻りました。
6月22日:明智光秀は、武田元明を近江に派遣しました。
6月23日:武田元明が近江の丹羽長秀の本城・佐和山城を陥落させました。
6月24日:明智光秀軍により安土城が陥落、京極高次・阿閉貞征に命じて近江・長浜城を陥落させ、斎藤利三を入れました。
6月25日:明智光秀は上杉景勝に使者を送り、援軍を依頼しました。
6月26日:朝廷が勅使・吉田兼見を安土に送り、明智光秀の勝利を祝賀しました。
6月27日:明智光秀は坂本城に帰還し、秀吉大行軍の情報を得ました。
6月28日:明智光秀は上洛し、朝廷に銀子を献上しました。その後、吉田兼見邸宅で夕食をとりました。
6月29日:明智光秀は筒井順慶に出陣をうながすため、洞ヶ峠に滞陣しました。
6月30日:明智光秀は淀城と勝竜寺城を修築し、下鳥羽帰陣しました。
7月1日:明智光秀は、「紀伊惣国一揆」に出陣要請をしました。
その他の人物の動向です。
徳川家康:家康は、信長の招きで穴山信君(梅雪)とともに安土城を訪れた後、家臣34名とともに堺に滞在しました。返礼のため長尾街道を京へ向かっていたところ、四条畷付近で京から駆けつけた茶屋四郎次郎清延に会い、「本能寺の変」を知りました。落武者狩りなどとの遭遇を回避するため、河内国四条畷から山城国宇治田原、近江国甲賀の小川城へ辿り着きました。その後、「天正伊賀の乱」の地・伊賀国の険しい山道を経て加太峠を越え、伊勢国から海路で領国の三河国大浜へ戻り、岡崎城へ帰還しました。この時、行く先々で銀子を渡してトラブルを避けた茶屋四郎次郎や、落ち武者狩りを回避するために惣村(集落)の乙名(村長)に道案内させた本多忠勝、敵地伊賀の只中でその伊賀出身を活かした服部半蔵正成等の配下の功績が絶大でした。これは後に「神君伊賀越え」と称される事になる、徳川家康最大の危機でした。
この「神君伊賀越え」で家康に随行していた34人:本多忠勝、井伊直政、榊原康政、酒井忠次、石川数正、本多正盛、石川康通、服部正成、高木広正、大久保忠隣、菅沼定政、久野宗朝、本多信俊、阿部正勝、牧野康成、三宅正次、高力清長、大久保忠佐、渡辺守綱、森川氏俊、酒井重勝、多田三吉、花井吉高、鳥居おます、内藤新五郎、都筑亀蔵、松平玄成、菅沼定利、永井直勝、永田瀬兵衛、松下光綱、都筑長三郎、三浦おかめ、青木長三郎
その他に家康には、長谷川秀一、西尾吉次、穴山信君(梅雪)が同行していました。
長谷川秀一は、一行脱出経路の決定や大和、近江の国衆への取り次ぎを行うなど「神君伊賀越え」の成功に貢献し、安全圏の尾張熱田まで家康一行に同行し、無事窮地を脱しました。
西尾吉次は、無事に「神君伊賀越え」を成し遂げた後、そのまま家康の家臣になりました。
穴山信君(梅雪)は「神君伊賀越え」とは別行動を取りました。そのため、山城国綴喜郡の木津川河畔の渡しで、落ち武者狩りの土民に襲撃されて全滅しました。
柴田勝家:柴田勝家は佐々成政・前田利家とともに、6月22日に上杉氏の越中・魚津城を3ヶ月の攻城戦の末に攻略(魚津城の戦い)しました。「本能寺の変」の報が届くと上杉景勝の反撃や地侍の蜂起によって、羽柴秀吉のように軍を迅速に京へ返す事ができませんでした。
滝川一益:滝川一益は関東の上野国厩橋城にいました。「本能寺の変」の報せを聞いた小田原の北条氏直が、織田家との同盟を破棄して上野国奪取を目指して進出しました。滝川一益が任されていた旧武田領の信濃や甲斐では一揆が続発し、信濃の森長可は畿内へ逃亡、甲斐の河尻秀隆は一揆勢に敗れて討死しました。滝川一益は2万の軍を率いて北条軍6万を撃退しましたが、その後の戦いで敗れて領国の伊勢長島城へ命からがら帰還しました(神流川の戦い)。
織田信孝・丹羽長秀:織田信孝は丹羽長秀、信長の甥・津田信澄とともに、大坂にて四国の長宗我部元親討伐の準備を進めていました。「本能寺の変」の報が伝わると、丹羽長秀は織田信孝の指示に従って津田信澄を殺害しました。その後、丹羽長秀は織田信孝とともに京都に向かう羽柴軍に合流しました。
安藤守就:「本能寺の変」では明智光秀に呼応し、子の安藤尚就とともに美濃で挙兵しました。6月27日に北方城の城主・稲葉一鉄に攻められ、自害しました。
斎藤利堯:「本能寺の変」後に岐阜城を占拠しましたが、明智光秀が秀吉に敗れると、織田信孝に岐阜城を明け渡しました。
一色義定:織田政権での丹後守護の後、弓木城を居城にしました。「山崎の戦い」では明智光秀に味方し、細川藤孝と対立しました。
7月2日:羽柴軍は前夜に中川清秀・高山右近ら摂津衆が山崎の集落を占拠し最前線に着陣、池田恒興らが右翼に、また黒田官兵衛、羽柴秀長、神子田正治らが天王山山裾の旧西国街道に沿って布陣しました。秀吉の本陣はさらに後方の宝積寺に置かれました。これに対して明智軍は御坊塚の光秀の本陣の前面に斎藤利三、阿閉貞征、河内衆、旧幕府衆らが東西に渡って防衛線を張るように布陣し、迎え撃つ構えを取りました。当時の山崎には沼地が広がっていたため、大軍が通過できるのは天王山と沼の間の狭い空間に限られ、明智軍がその出口に蓋をした形となりました。天王山の山裾を横切って高山隊の横に陣取ろうと移動していた中川隊に、斎藤利三隊の右側に布陣していた伊勢貞興隊が襲い掛かり、それに呼応して斎藤隊も高山隊に攻撃を開始し、戦端が開かれました。斎藤・伊勢隊の猛攻を受けた中川・高山両隊は窮地に陥りましたが、秀吉本隊から堀秀政の手勢が後詰に到着した事で持ちこたえました。天王山麓に布陣していた黒田官兵衛・羽柴秀長・神子田正治らの部隊は前方に展開し、中川・高山両隊の側面を突くため天王山中腹を進撃してきた松田政近・並河易家の両隊と交戦し、一進一退の攻防が続きました。淀川沿いを北上した池田恒興・池田元助・加藤光泰が率いる手勢が、密かに円明寺川を渡河して津田信春を奇襲しました。津田隊は三方から攻め立てられ、混乱しました。池田隊に続くように丹羽隊・織田信孝隊も右翼から一斉に押し寄せ、光秀本隊の側面を突くような形となりました。これを受けて苦戦していた中川・高山両隊も斎藤・伊勢両隊を押し返し、動揺が全軍に広がった明智軍はやがて総崩れとなりました。御牧兼顕隊は「我討死の間に引き給え」と光秀に使者を送った後、勢いづく羽柴軍を前に壊滅しました。光秀は戦線後方の勝竜寺城に退却を余儀なくされましたが、主力の斎藤利三隊が壊走して戦線離脱、黒田官兵衛の隊と交戦していた松田政近、殿を引き受けた伊勢貞興らが乱戦の中で討死するなど甚大な打撃を受けました。一方の羽柴軍も前線部隊の消耗が激しく、日没が迫った事もあって追撃は散発的なものに留まりましたが、それ以上に明智軍では士気の低下が著しく、勝竜寺城が大軍を収容できない平城だった事もあって兵の脱走・離散が相次ぎ、その数は700にまで減衰しました。光秀は勝竜寺城を密かに脱出して居城・坂本城を目指して落ち延びる途中、小栗栖の藪(京都市伏見区、現在は「明智藪」と呼ばれる)で土民の落ち武者狩りに遭い、そこで竹槍に刺されて絶命しました。
7月3日:勝竜寺城に入り体勢を整えた羽柴秀吉は、堀秀政を近江への交通路遮断と光秀捜索に派遣しました。堀隊は光秀の後詰のために急遽出兵した明智秀満の軍300人を、打出の浜で迎え撃って撃破しました(打出浜の戦い)。中川清秀・高山右近の両隊は丹波亀山城を攻撃し、明智光慶を自刃させて城を占拠しました(亀山城の戦い)。
7月4日:堀秀政の軍は、明智秀満を追撃して坂本城に総攻撃をかけました。明智秀満は坂本城で相手方に家宝を贈呈した後、光秀の妻子を殺害し、明智茂朝、明智光忠とともに自刃しました。ここに明智氏は滅亡しました。
7月5日:京に入った羽柴軍は長浜城の妻木範賢、佐和山城の荒木行重、山本山城の阿閉貞征、山崎堅家らの逃亡、または降伏によって近江を平定しました。
7月6日:斎藤利三が潜伏先の堅田で生け捕りにされ、六条河原で斬首、磔刑に処されました。
秀吉は、この信長の弔い合戦に勝利した結果、「清洲会議」を経て信長の後継者としての地位を固め、天下人への道を歩み始めます。「清洲会議」後には、最後に残った光秀方の将である武田元明が丹羽長秀に攻められ自刃、京極高次は妹の竜子(松の丸殿)を秀吉に差し出して降伏しました。
最後に明智軍の武将たちです。
明智秀満:五宿老の一、坂本城で自刃
明智光忠:五宿老の一、坂本城で自刃
斎藤利三:五宿老の一、「本能寺の変」では明智秀満と共に本能寺を攻めました。その後、近江平定戦に従軍し、「山崎の戦い」では中央先陣を務めました。戦後、潜伏しましたが近江堅田で捕縛されて斬首されました。春日局の父です。
藤田行政(伝五郎):五宿老の一、「山崎の戦い」で六ヶ所の傷を負い、淀まで退却しましたが自刃
溝尾茂朝:五宿老の一、「山崎の戦い」では一番の中備を務めました。坂本城で自刃
伊勢貞興:「山崎の戦い」では中軍右翼を務め、戦死
御牧景重:「山崎の戦い」では中軍右翼を務めました。明智軍総崩れ後、光秀に勝竜寺城への退却を進言し、自らは敵に向かい戦死
明智光近:「山崎の戦い」で片桐且元に討たれる
明智孫十郎:「本能寺の変」で先鋒を務めましたが、その後の二条城攻撃の際に討死
多治見国清:「山崎の戦い」で討死
妻木広忠:坂本城落城後に死者の墓を作り、その墓前で自刃
妻木範武:「山崎の戦い」で討死
山本秀勝:「山崎の戦い」で討死
並河易家:「山崎の戦い」では山手右翼先陣を務め、戦死
阿閉貞征:「山崎の戦い」に参戦、後に秀吉軍に山本山城を攻められて殺害される
山崎の戦いから「天王山」、「三日天下」などと言う言葉が生まれました。

その次の次に、北越戊辰戦争:朝日山の戦いです。「榎木峠の戦い」で妙見村・浦柄村は長岡藩に占領されました。そこで新政府軍は朝日山に攻撃をかけました。この攻撃は、山県有朋、時山直八が指揮をとりました。朝日山山頂に陣取る立見鑑三郎が率いる桑名藩兵(雷神隊)と長岡藩兵と戦いました時山直八は戦死し、新政府軍は敗走しました。「松下村塾」に入り、師・吉田松陰から「中々の奇男子なり、愛すべし」と評され、「禁門の変」を戦い、「奇兵隊」に参加して「4カ国連合艦隊」と下関で戦い、「長州内戦」から「幕長戦争」と数々の戦場を戦い抜いた歴戦の将・時山直八はここで戦死しました。山県有朋は昔からの同志の死を痛み、詠ったのが有名な「仇まもる 砦のかがり 影ふけて 夏も身に染む 越の山風」です。

そのまた次に、万宝山事件です。満州内陸に位置する長春の北、三姓堡万宝山の朝鮮人農民を、中国人農民が水利の利害関係より襲撃、さらに中国人と朝鮮人との両者の争いに、中国公安や止めに入った日本の警察官とも衝突した事件です。この事件を契機に朝鮮半島で朝鮮排華事件が発生し、800人以上の死者がでました。

そのまた次の次に、第二次世界大戦:呉市街空襲、下関空襲です。
呉市街空襲:7月2日の午前0時2分、「B−29」152機が次々と呉市街地上空に侵入し、呉市街地の周辺から中心部へと焼夷弾を投下しました。午前2時5分迄、全部で16万454発(1081トン)もの焼夷弾が投下されました。この空襲で呉市街地は焼け野原となり、死者3700人の被害を出しました。
下関空襲:1945年6月29日午前1時10分頃、「B−29」の編隊が壇之浦から宮田町、唐戸町、南部町の市東部を爆撃しました。続いて7月2日午前0時10分頃に「B−29」143機が来襲し、豊前田町から西細江町、入江町、丸山町、さらに東大坪、高尾、観音崎、南部、西之端、田中、上田中、園田、宮田の各町など、市街地のほぼすべてを焼き尽くしました。この2回の空襲により、死者は324人、罹災人口38700人、罹災家屋8600戸の被害を出しました。

最後に、金閣寺放火事件です。鹿苑寺から出火の第一報があり消防隊が駆けつけましたが、その時には既に舎利殿から猛烈な炎が噴出して手のつけようがありませんでした。国宝の舎利殿(金閣)46坪が全焼し、創建者である室町幕府3代将軍・足利義満の木像、観音菩薩像、阿弥陀如来像、仏教経巻などの文化財6点も焼失しました。不審火の疑いがあるとして寺の関係者を取り調べました。その結果、見習い僧侶であり大谷大学学生の林承賢が行方不明である事が判明し、捜索が行われました。夕方になり寺の裏にある左大文字山の山中で薬物のカルモチンを飲んで、切腹してうずくまっていたところを発見され、放火の容疑で逮捕しました。事件後、林承賢の母親は京都市警による事情聴取のため京都に呼び出され(禅宗の僧侶であった父親はすでに結核により他界)、捜査官から事件の顛末を聞く事となりましたが、その衝撃を受けた様子から不穏なものを感じた警官は実弟を呼び寄せて付き添わせました。しかし、実家がある大江への帰途、山陰本線の列車から亀岡市馬堀付近の保津峡に飛び込んで自殺しました。林承賢は、京都地裁に懲役7年を言い渡された後に服役しましたが、服役中に結核と統合失調症が進行し、加古川刑務所から京都府立洛南病院に身柄を移されて入院した後に病死しました。現在の金閣は国や京都府の支援および地元経済界などからの浄財により、事件から5年後に再建されたものです。金閣寺は明治時代に大修理が施されており、その際に詳細な図面が作成されていた事から、きわめて忠実な再現が可能となりました。この事件を題材に、長編小説が書かれました。三島由紀夫「金閣寺」や、水上勉「五番町夕霧楼」です。

今日の誕生日:浅丘ルリ子、レツゴーじゅん(元レツゴー三匹)、西川きよし(元やすしきよし)、小柳ルミ子、南沙織、ホセ・カンセコ、田口壮、亀山忍、伊藤洋一(GOING UNDER GROUND)、三宅健(V6)、藤井リナ、ウラディミール・バレンティン、小泉麻耶、大野いと、金澤朋子(Juice=Juice)

今日の記念日:半夏生、ユネスコ加盟記念日、たわしの日、蛸の日、谷川岳の日、プロアクティブの日、うどんの日、柿渋の日

今日の「今日訓」:本日は、雑節の1つ「半夏生」です。半夏(烏柄杓)という薬草が生える頃です。1951年、日本が「国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)」に加盟した事で「ユネスコ加盟記念日」、1915年、西尾商店(現在の亀の子束子西尾商店)の西尾正左衛門が「亀の子束子」の特許を取得した事で「たわしの日」、関西地方では7月2日頃の「半夏生」に蛸を食べる人が多い事から「蛸の日」、1920年7月1日〜2日にかけて藤島敏男と森喬の2名が、谷川岳初登頂を記念して「谷川岳の日」、香川県地方の農家では農繁期が一段落した「半夏生」の頃にうどんを食べて、労をねぎらう習慣がある事から「うどんの日」、「悩まない(7)ニキビ(2)」の語呂合わせで「 プロアクティブの日」、「夏季7月2日」を「かきしぶ」と読む語呂合わせで「柿渋の日」となりました。
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する