mixiユーザー(id:14855706)

2016年06月30日02:19

260 view

豊臣秀長 優れ過ぎた弟の死と豊臣家崩壊に

天正19年1月22日(1591年2月15日)、豊臣秀長は大和郡山城内で享年52歳で病死した。

豊臣政権でのナンバー2、秀吉の弟・豊臣秀長は羽柴秀長、あるいは大和大納言とも呼ばれた。秀吉の政権下で大和郡山に居城を構え、その領国は紀伊(和歌山県)・和泉(大阪府南部)・大和(奈良県)にまたがり、160万石を有していた。秀吉臣下としては、徳川家康に次ぐ大大名だった

内政面・軍事面ともに能力が長け、多方面で辣腕を振るうような逸材であるに関わらず、性格は温厚で多くの武将に慕われていた。最終的には110万石の大大名にまで栄達し、官位も従二位権大納言に栄進した。このことから大和大納言と尊称された。

信長の美濃攻略に突破口をあたえた秀吉の墨俣一夜城をつくる攻略作戦では、秀吉が土豪の蜂須賀小六を説得して味方につけたことになっているが、実際は秀長が説得に腐心した

四国征伐においては、当時病中の秀吉になり代わり、総大将として讃岐・伊予・阿波を下し、土佐の長宗我部元親を降伏させて天正13年(1585)わずか50日で四国平定をなしとげた。名将でもあった

天正16年(1588年)、いわゆる太閤検地が全国的な規模で実施されたが、実はこの3年も前の天正13年8月、豊臣秀長によって紀伊国(秀長領国)において既に実施されていた

所領であった大和国において秀長は、寺社に武装解除させ、商人と隔離し宗教活動だけに専念させるという、明確な意図をもって厳しい宗教政策を実施した。25000石もの年貢を配当していた奈良興福寺の過剰申告を暴き、その上乗せ分を厳しく削減させたのも秀長の功績であり、あの信長以上に徹底していた

商工業保護の政策として、各種の同業者を業種ごとに郡山城下のそれぞれの町に集め、営業上の独占権を認め町々にそれぞれの特許状を与えて保護しました。この特許状を彼らに朱印箱に納めさせ封印をさせて、一カ月交代で箱本として郡山の城下町全体の自治を持ちまわりさせた。箱本になった町の年寄は、一ヶ月間全責任を持って郡山すべての町の世話をしている。

豊臣秀吉・秀長が信長の下で台頭した理由の一つに、他の織田家大名たちと比較して、抜群の経済力や財務力があったことがあげられる。鳥取城攻略の際には予め城内の米を時価の数倍の値段で買占め効果的な兵糧攻めを行い、高松城の水攻めには莫大な土俵費用と人件費を要しています。これ以外にも秀吉・秀長の戦争は、いかに大量の兵糧や弾薬を調達しそれを適所に迅速に配分するかにかかっており、高い経済力は不可欠なものでした。 これらはすべて、秀長と堺商人でもあった茶人千利休の協力関係による功績だった

秀長と利休は、泰平の世の到来にあたり、支配階級の指向を土地(年貢)獲得から、法に則った競争による金銭獲得(商い)に方向転換させようとしていた。困難な商人からの課税の代わりに金融投資による金銭運用という方法で、支配階級の恒常的な金銭確保を実現しようとしていた。

秀長は誕生したばかりの豊臣政権内で、公的立場の秀吉を補佐する重責を担っていた。結果論だが秀長の存命中、豊臣政権は微動だにしていない。それが、1591年(天正19年)、秀長が病でこの世を去ると、並び称された千宗易(利休)も失脚、政権はやがて自壊の方向へ突き進んでしまう。

秀吉より先に死んでしまったことが遠因となり、千利休の切腹、朝鮮出兵、秀次切腹など、豊臣政権崩壊を引き起こす要因となっっていく
12 4

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2016年06月>
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
2627282930