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2016年05月01日14:01

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山名氏歴史・考察記事3

アルバム「山名城/山名氏」→ http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000099237721&owner_id=32815602

(行間1)
◎赤松政則──
享徳4年2月19日(1455年3月7日)〜明応5年4月25日(1496年6月6日)。
赤松氏8代当主 赤松満祐の従孫。
7代義則の嫡男 満佑、同じく4男 義雅。義雅の子 時勝。
嘉吉の乱の責にて幕府より攻められ取り潰されたため、父 時勝と政則は京都建仁寺で養育されていた。その父 時勝は政則が生後7ヶ月のとき死去。母も早世したとされる(説)。
同族 赤松則尚が播磨で挙兵するも山名宗全に討たれたのは政則が生まれる前年。
政則は不幸な幼少期を過ごしたとされている。その養育は家臣 浦上則宗が務めた。主従の関係は厚く、のちに関わっていく戦乱、大名家再興、出世における体制の原点となる。
※赤松氏が再興する過程において、もっとも功績が高かったのは政則の養育を務めた浦上則宗である。政則の年齢から、再興前後の赤松氏の軍事・内政等の命令の大半は則宗が実際に出して執行していた可能性が指摘されている。
浦上氏は古くから赤松氏の重臣で、備前守護代や守護直属の奉行人を務めてきた。浦上氏は政則没後、赤松氏を打倒してのし上がっているため守護代下剋上の典型例と見られているが、則宗は直属の奉行人として赤松家中でその実力と立場、尽忠を認められ、幕府からも山城守護代や侍所所司代にも任命されるほどその働きは信頼されていた。
※加賀北半国守護代には小寺氏を当てていた事が確認できる。
※幕府が赤松家の再興を認めた背景には、長禄の変における功績の他に、山名氏に対する政治背景があったとされる。嘉吉の乱で赤松領を所領とした山名氏の勢力は幕府を脅かす最大勢力となっていたため、赤松家を再興する事で山名氏の牽制に当てる狙いがあったと考察されている。

長禄3(1459)年10月、加賀北半国入部。このとき富樫氏の旧臣(岩室氏等)や国人の激しい抵抗にあった。加賀国は赤松氏には無縁の土地であったため困難を極めたが、越中守護 畠山氏の支援協力もあり、所領経営に取りかかれた。
再興、新所領の統治、そして山城国各地の土一揆鎮圧の貢献、これらの動きに呼応するように赤松氏旧本領の播磨国で、赤松氏の旧臣であろう牢人らの動きが活発化した。
寛正6(1465)年6月12日、幕府はこの動きを危険視し、罪科を招きそうな播磨牢人衆の名前の注進を山名宗全に命じている。播磨国内における反山名勢力ほか不穏分子が結集され始めた。
同年12月26日、政則は義政の偏諱を授かり元服する。


長禄2(1458)年、宗全は赦免されて上洛、幕政に復帰。
寛正元(1460)年、当主 教豊と不和になると、教豊が播磨へ下向してしまう。まもなく対立は解消したが、これを契機に次男 是豊も宗全への不満を露わにした。
このとき是豊は家督継承を望んだが断られている。
※山名氏の内訌が応仁の乱にも影響する。
寛正3(1462)年、是豊は備後・安芸の守護を、寛正5(1464)年には山城守護が追加された。これは管領 細川勝元の引き立て。
是豊は応仁の乱で東軍に属し、父 宗全軍と刃を交える。
※是豊は備後山名氏の家祖になる。

◎細川勝元──
細川本宗家・京兆家・細川京兆家・管領細川家、11代。
※京兆(けいちょう)は右京大夫の唐名。

細川勝元は山名氏の権勢を背景に地盤を固め、同様に幕府で力を得てきている(室 山名宗全養女(山名熙貴娘))。そのため宗全にはずっと協調路線で来たが、宗全の加担する勢力が自身の思惑・政策と相容れなくなり、斯波氏・畠山氏の家督争い、山名氏家中の不和に介入する。
寛正年間、勝元は勘合貿易(日明貿易)の問題から大内教弘(周防・長門・筑前・豊前・肥前守護。大内氏13代当主)、河野通春(河野氏分家筋、伊予守護)らと闘争していたが、宗全はこれを支援。
三管領 畠山氏の家督争いでは、宗全は畠山義就を支持、勝元は畠山政長を支持。
(畠山氏のゴタゴタは文安年間から。義就は寛正年間に落ちぶれ、そして再起。)
◎畠山義就→ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%A0%E5%B1%B1%E7%BE%A9%E5%B0%B1
◎畠山政長→ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%A0%E5%B1%B1%E6%94%BF%E9%95%B7
斯波氏の家督争いでは、宗全は斯波義廉を支持、勝元は斯波義敏を支持。
幕政主導を巡り、婿である勝元と対立するようになっていた。
(このときの斯波氏のゴタゴタはだいたい寛正年間。)
◎武衛騒動→ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%A1%9B%E9%A8%92%E5%8B%95
※→ http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000095162232&owner_id=32815602
◎文正の政変→ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E6%AD%A3%E3%81%AE%E6%94%BF%E5%A4%89
◎斯波義廉→ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%AF%E6%B3%A2%E7%BE%A9%E5%BB%89
◎斯波義敏→ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%AF%E6%B3%A2%E7%BE%A9%E6%95%8F
寛正6(1465)年8月、山名宗全、斯波義廉の協力を得、畠山義就が挙兵。
12月、宗全は上洛した義就を義政へ仲介し、赦免させた。
応仁元(1467)年1月、義政に強要して畠山政長の管領職を罷免、出仕を停止させ、代わりに斯波義廉を管領へ任命させた。
1月18日、御霊合戦。京都北部で義就と政長が激突。義就勝利。
同年5月26日、上京の戦い。勝元派の反撃。応仁の乱へ突入する。

◎応仁の乱──
◎足利将軍家──
3代足利義満は権勢を振るい栄華を極めた。
4代義持は守護大名らの調整役としてうまく立ち回ったが、権勢は緩やかに下降させた。
5代義量夭折(17歳)。大御所と管領らが政事は取り仕切ったため、何もしていない。病弱だった。
6代“籤引将軍”義教は強権政治が祟り暗殺された。
7代義勝夭折。8歳で就任、9歳で病死。在任8ヶ月。
8代義政。兄が早逝したため7歳で継嗣確定、13歳で元服、正式に将軍となる。義満の政策を目指し専制政治を行おうとするが、三魔(乳母の今参局(御今)、烏丸資任、有馬持家。おいま、からすま、ありまと、「ま」がつく3人を三魔と称した)や母 重子と正室 富子の実家 日野家、三管領や有力守護大名らが政治に介入してくるため、将軍として政治の主導権を握ることができず、また大名らの御家騒動など醜い事件がいくつも発生し、そして幕府の財政難、土一揆に苦しみ、とうとう政治を疎んだ。こうして義政は文化の発展のみへ、のめり込んでいった……。

義政は正室 日野富子との間に、嗣子に恵まれなかった。隠居したくてしたくて仕方がない義政は、実弟 足利義視(よしみ)に対して将軍職後継を依願。
義視は兄がまだ30歳にも満たない年齢であることや、兄の室に男児ができれば後継者争いが始まることを気に病み拒絶。しかし「男児が出来ても将軍職は義視に」と起請文まで書かれたため、渋々これを承諾。後見役は三管領 細川勝元。
その翌年──寛正6(1465)年11月23日、男児(足利義尚)誕生。正室 日野富子の実子である。富子はとうぜん息子に将軍職を継がせたい。そこで、幕府一の有力者と言って過言ではない四職 宗全を後見役に選んだ。

家督争い──御家騒動に将軍家も加わると、全国の守護大名や国人が参戦、戦乱は激化していく。
東軍──細川勝元・足利義視ら24ヶ国、兵およそ16万。
西軍──山名宗全・足利義尚ら20ヶ国、兵およそ9万。
戦場は主に京都。そして畿内。全国の諸大名参戦により地方でも混乱。大和、近江・美濃、越前・尾張・遠江、播磨・備前・美作、備後・安芸。
将軍家の跡目争い。この将軍家に、戦乱を鎮めるために動いたという形跡が皆無。義政は酒宴に明け暮れていたとも伝わる。まして「諸国の御沙汰は毎事力法量(諸国の沙汰は力次第である)」と述べ、他国の守護が他国を侵略することを是認した。これにより室町幕府の家格秩序は崩壊、身分秩序が流動化する。また、長期にわたる京都での軍事活動により守護の財政は逼迫。このために権威と財政を失い、守護は国人や家臣団に対する支配力を著しく低下させた。そしてのち、国人や家臣は守護の影響を排除し、自らの地盤を固め領主化していった。在京が原則であった守護は領国へ下国し(幕府は収入を失った)、守護代に任せていた領国経営を自ら行おうとする。守った者、奪った者、破った者、落ちた者……下剋上、当世の象徴。群雄割拠、戦国の世が到来する。
東西勢力それぞれの内ゲバ。斯波氏・畠山氏・山名氏・京極氏・六角氏・土岐氏・大内氏・小笠原氏・富樫氏・武田氏(若狭)・島津氏・河野氏・吉良氏・小早川氏……。
参戦した数多くの大名が裏切りを繰り返す。富樫政親、朝倉孝景などはその代表。
両軍の人間関係は複雑にからみ合った。
途中お飾り将軍まで東西入れ替わった。
応仁の乱の最中は、長期化にともなって厭戦気分が蔓延していった。だのに終わらなかった。
はじめは混乱や疑心を生ませる情報、嘘・噂が多く流布していたが、後半になると厭戦気分を表わすネタが多くなっている。よって事実・史実が不明瞭な部分も。
◎富樫政親→ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E6%A8%AB%E6%94%BF%E8%A6%AA
◎朝倉孝景→ https://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4GGNI_jaJP547JP547&q=%e6%9c%9d%e5%80%89%e5%ad%9d%e6%99%af

応仁の乱突入後、赤松政則は山名軍主力を率いる山名宗全の西軍と京都で交戦しながら、その裏で家臣 宇野政秀らを赤松氏旧領の播磨・備前・美作へ侵攻させた。
播磨国においては、旧臣・牢人・寺社・百姓・国人までが味方について協力したため、わずか数日で奪回に成功する。備前・美作は翌応仁2(1468)年に奪回した。
しかし、加賀北半国は富樫政親に奪回されている。
旧領奪回の悲願を果たすと、応仁の乱参戦の諸大名同様に内訌が勃発する。摂津有馬郡分郡守護・赤松氏支流有馬氏・有馬持家嫡子 有馬上総介元家──三魔のひとりが、赤松氏惣領の地位を狙って叛旗を翻した。
応仁2(1468)年11月10日、政則は元家を殺害(義政命説)してこれを鎮めたが、以後赤松氏家中も不穏が続く。

◎大内政弘──
文安3年8月27日(1446年9月18日)〜明応4年9月18日(1495年10月6日)。
大内教弘嫡男。14代当主。母が山名宗全養女(山名熙貴娘)。
応仁元(1467)年7月(8月?)、大内政弘上洛。これよりおよそ10年間、畿内各地(摂津・河内・和泉・山城)をすさまじく・おそろしく転戦する。そうしては所領へ侵攻される。
大内政弘は京都では東寺に陣を構えた。

同年9月9日、山名教豊が父 宗全に先立ち陣没(44)。宗全は当主へ復帰する。
応仁2(1468)年7月、西軍将軍 足利義視は大内政弘を左京大夫に任ずる。東軍将軍 足利義政は山名宗全・大内政弘らを朝敵として討伐を命じる御内書を2度にわたって発す。
応仁3(1469)年、東軍が西軍本陣に斬り込みをかけてきた。このとき宗全は自ら刀をとって敵兵を追い払ったと記録されている。
12月、東軍 少弐教頼と宗盛貞が大内政弘の不在を突いて筑前国へ侵攻するが敗走。
(西軍本陣は現 京都上京区西陣。一条通り以北・堀川以西。西陣織の名は──。)
文明元(1469)年、少弐氏、細川氏らに調略された政弘叔父 大内教幸が赤間関で謀反(大内道頓の乱。現 下関市)。政弘は益田貞兼を帰国させ、留守居役 陶弘護の反乱鎮圧に加わらせる。
同年4月22日、西岡の戦い(現 京都府乙訓郡西岡)。東軍についた国人 野田泰忠らが西軍を攻撃。劣勢の西軍を畠山義就が救援。東軍は山名是豊が援軍として参戦、義就軍と交戦を繰り返したが、翌年12月に是豊が備後へ下向してからは大きな合戦がないまま小競り合いとなる。西岡は義就の所領となった。
文明3(1471)年、小倉宮の血を引く西陣南帝を擁立したが、程なく放逐された。
(後南朝3代 尊雅王(南天皇。1457〜1459年)以後西陣の南帝を除いて後南朝は史書より姿を消している。)
文明4(1472)年、大内教幸、豊前にて自害。
同年、和平交渉が行われたが、赤松政則の反対などで失敗。
同年5月、宗全は自刃しようとするが失敗。(厭戦気分から軽鬱だった(?)。事前に止められたとも救出されたとも。)
8月、宗全は嫡孫 政豊へ家督を継承する。(宗全4男説あり。)
文明5(1473)年3月18日、宗全病死(68)。前年の切腹未遂の傷が元とも。
5月11日、細川勝元病死(数え43)。
8月26日、政弘は足利義視を京都の自邸に迎え接待している。

※発端とも言える山名宗全と細川勝元の他界で戦乱は鎮まる気配は見せたが、小競り合い程度に落ちただけで抗争は継続された。
※国土領主化、一円知行化が進むことにより、公家や寺社の荘園は横領された。幕府の権威低下により、遠国など元々権力の届かなかった地域の荘園・国衙領支配は絶望的になった。荘園制度の崩壊──収入を断たれた公家は没落、朝廷行事や官位昇進への意欲、関心さえ失う。文明5(1473)年、顕官である近衛大将の希望者が現れないという事態が発生している。前関白 一条教房同様に京都を去った公家衆(京文化が地方に広まった一因。特定の地域にあるひとつの様式が根付いた要因)、町広光(まち ひろみつ)のように自ずから家を断絶させた公家衆。幕府同様朝廷も収入を激減させ、即位礼や大喪の礼など通例行事・儀式を行うことも困難となった。そのため戦国期には、献金による売官が行われた。
※荒廃した京都が復興するのは明応年間。


●山名政豊──
文明6年4月3日(1474年4月19日)、山名政豊は細川政元(勝元嫡男)の間に和睦を実現させた。政豊はこのとき和睦に応じなかった畠山義就や大内政弘を攻撃した。
東西両軍はなおも戦闘を続ける。
赤松政則はふたたび所領を失うことを恐れ、やはり和睦に反対している。
同年11月13日、義政は改めて政弘を(東軍による)左京大夫に任じ、懐柔に乗り出した。
文明7(1475)年、山名政豊叔父 山名是豊と戦った山名豊成が恩賞不当と備後で反乱を起こしたが、これを調停。
文明8(1476)年9月、政弘は足利義政による東西和睦の周旋要請を受諾。
文明9(1477)年、幕府は東軍による大内領攻撃を禁じ、政弘が和睦の要件としていた河野通春の赦免に応じた。
同年10月9日、若江城の戦い(東大阪市若江南町)。河内国の領有をめぐる畠山義就、畠山政長の争いは、東西両軍が撤収した後も継続する。
同年10月、政弘は新将軍9代足利義尚の名で周防・長門・豊前・筑前の4ヶ国の守護職を安堵された。
11月11日より大内政弘ら諸大名が帰国の途につき京都を出たことで、応仁の乱は収束する……。

山名氏は和睦後も播磨・備前・美作を巡って赤松氏と衝突を継続する。
山名氏の山陽領再奪取の目論見に、赤松氏は山陰の山名氏領へ攻勢をかけていく。
文明11(1479)年春、第1次毛利次郎の乱。八東郡私部郷の因幡毛利氏(毛利次郎貞元)は、赤松政則の勢力と結託する山名氏傍流 山名政康・山名熈成ら、加えて南因幡に多い独立性の高い奉公衆系国人(守護による統制が及びにくい地域だった)で反守護連合を構築、守護家に対して反乱を起こした。
同年7月末、因幡守護 山名豊時を、美作には山名政清を派遣して鎮圧に当たらせた。
9月、山名次郎・七郎兄弟を加勢させたが、戦況は反守護連合の優勢のまま推移。
9月10日、惣領 政豊みずから但馬へ下向し対処に当たったが、鎮圧までに結果1年を要した(〜文明12(1480)年春)。その間、因幡国内の政豊知行分までが押領されるほどだった。

◎山名政之──山名教之嫡孫。父 豊之は文明3(1471)年、伯耆国内の混乱収拾中、何者かに殺害された(謀反にて死亡と記録がある)。
◎山名九郎元之──山名教之4男。弟 小太郎は5男。子に新九郎。
文明8(1476)年頃、伯耆守護だった兄 山名之弘に代わって家督を継承、赤松政則の支援を受けて伯耆守護職に就任。元之は山名氏と敵対する赤松氏の影響を強く受けていたため、家督相続と守護就任には山名家中から強い反発があった。
◎山名小太郎──諱不明。山名教之5男。兄に豊之、豊氏、之弘、元之。
文明11(1479)年、兄 元之と甥 政之が伯耆守護職を巡って内訌。小太郎は元之党に属して守護側と戦う。
文明13(1481)年8月、小太郎らは円山城より撤退。元之党は敗れた。南条下総入道、赤松氏家臣 中村五郎左衛門らが討ち死。小太郎は美作へ落ち逃れ、赤松氏の保護を受ける。
同年9月、西伯耆の法勝寺城などで抵抗していた元之党残党も一掃され、一連の内訌は元之の敗北に終わった。元之の消息は不明となったが、延徳元(1489)年正月までに没したものと考察されている。
文明14(1482)年閏7月、赤松政則は文明3(1471)年より続いた赤松氏庶流 在田一族の反抗を完全鎮静化。(攻勢が繰り返されたため、一族郎党みな殺しに(?)。)
文明15(1483)年7月、山名氏が播磨国侵攻。

◎松田元成──
応仁元(1467)年、応仁の乱において当代 松田元澄は東軍の赤松氏に与した。このときの功績で赤松氏の被官になり、伊福郷の守護代相当の地位を得る。
文明12(1480)年、本拠を備前富山城より金川城へ移転。
文明15(1483)年頃、備前国西部に確固とした力を築き独立を目論んでいたため(不詳)に主家 赤松氏より警戒されるに至り、政則より追討令が発せられた。これを受けた三石城の浦上則国の侵攻を受け、松田元成は赤松氏と敵対する山名氏へ与し、援軍を要請する。
同年7月、赤松氏と敵対関係になった松田元成は、密かに結んだ山名氏の軍勢を備前国へ引き入れ、赤松氏へ攻撃を開始した。
(松田氏追討の命が、山名氏進軍の前の出来事の結果か、進軍の結果の発令か、仔細不詳。)
松田元成は山名氏の援軍とともに福岡城(小鴨大和守、浦上則国、浦上基景)へ進軍。
京に居た浦上則宗は、赤松政則に福岡城へ援軍を送るよう要請。政則は福岡城へ援軍 浦上則景を送る一方で、自らは山名氏の本領 但馬国へ出陣した。(則宗の指示ではない。政則は軍を二分して山名軍へ当たった。)
同年12月25日、真弓峠の戦い。真弓峠にて垣屋氏を主力とした山名軍に政則は大敗、逆にこの勝利に乗った山名軍は播磨国へ侵攻した。
(政則は生き残った家臣らと姫路を目指したが、途中行方不明になっている。)
大敗の報せに赤松軍の士気は著しく低下、浦上則景は福岡城への援軍を引き返さざるを得なくなるほどだった。
後詰を失った福岡城は、松田・山名軍に包囲され、籠城戦となる。福岡合戦。
(福岡城からは重臣らが逃げ出したとされるが、後詰を失った時点か、籠城戦の最中か終末か、不詳。)
50日の籠城の末、福岡城陥落。
文明16(1484)年2月、元成は浦上則国の居城 三石城を落とすため東へ進軍するが、途中の吉井川東の天王原で浦上則宗と合戦に及ぶ。
元成、大敗。敗走するが追撃を受けて追い詰められたため、磐梨郡弥上村山で自刃した。
※松田氏──
相模国足柄上郡松田郷に発祥した藤原秀郷流波多野氏一族の氏族。
室町時代後期に備前国西部一帯に存在した家系、
室町時代に幕臣として京都に存在した家系、
小田原北条氏に仕えた家系(後に加賀前田家に召抱えられた相模松田家本家、その分家は結城家、徳川将軍家旗本になった家系)とある。
鎌倉期には相模国内に残存した波多野氏一族を統合する惣領家であったと考えられている。南北朝期、室町期、戦国期……惣領制の崩壊、本宗家から子らが各々独立していった時代。松田氏においては本宗家がどの筋かまったく不詳となっている。

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