mixiユーザー(id:21969907)

2016年04月20日14:52

231 view

《 日韓両国ともに「正しい歴史を直視」しなければならない。》


《 日韓両国ともに「正しい歴史を直視」しなければならない。》

韓国人は「日帝強占」とか「植民地搾取」などと言う言葉をよく使うが、余りにも歴史を識らな過ぎる。そんな妄想に捉われながら、よくも「歴史を直視せよ」などと言えたものである。当時の歴史を韓国人は全く学んでおらず、建国以来の反日教育に洗脳され、その心地良い洗脳史観に耽溺し、都合の悪い真実から目を背け続けている。

併合以前と併合中の真実を体験した韓国人が、この世を去った今、韓国人が真実を知ろうとするなら、韓国と日本 以外の国の文献をあたれば、容易に真実と信じるに足る史実に辿り着けるのだが、殆んどの韓国人は、留学などでそういう機会に恵まれても、史実を受け容れる勇気を示さない。心地良い洗脳史観・妄想史観の世界に逃げ帰ってしまう。

対する我が日本も正しい近現代史を国民に教育していない。日本は情け無い事に『東京裁判史観』から外れた教育を一切していないし、マスメディアはそれに輪を掛けて悪質な売国気質を持っている。世界中で日本人と韓国人が最も近現代史を知らないのでは無かろうか?

だから、在日韓国朝鮮人に対して、日本国民は故なき贖罪意識に駆られて、「日本人は昔、朝鮮半島の方々に悪い事をしたのだから謝罪と反省の気持ちを持たなければならない」などと見当違いな配慮を続け、在日は在日で相変わらず〈被害者詐欺〉を続けている。兎に角、日本は度を超した反日教育をしている。代表的なのが奈良県と和歌山県にある智弁学園高等学校である。ここの生徒は韓国に修学旅行に連れて行かれ、全員一斉に土下座をさせられる。

智弁学園の藤田照清理事長は韓国大統領から表彰までされている。史実を知らないという事は、「滑稽である」と同時に「残酷でもある」。日本政府は毅然としてこれを止めさせるべきであると思うが、首相官邸も文科省も毎年これを黙認している。スポンジのように知識を吸収する時期の高校生たちはどんな思いで土下座をするのだろうか?藤田照清理事長ひとりを教育者失格と責めるのではなく、それを毎年黙認する日本政府の罪深さを責め、糾し、正すべきである。

真実の歴史はこうである。「1894年に始まった日清戦争 以来、朝鮮人は、日本人の被害者であった事は一度も無かった」。寧ろ、「朝鮮人により多大な被害を被り続けたのは日本国民の方であった」。在日韓国朝鮮人はこの歴史を少しでもご存知か?貴方がたは1894年以来、日本による被害者であった事は無く、一貫して日本から恩恵を受け、日本人に対して迷惑をかけ続けたのである。

日清戦争とは、朝鮮を清国がら独立させる為に起こされた戦争である。勿論、戦争とは一つの要因だけで起きるのではない。日本としては大国ロシアが南下して来た時、朝鮮が自ら主権を護れる独立国家で無ければ、日本自身が直にロシアと対峙せねばならず、朝鮮にはしっかりとした独立国家でいてくれなければ困るという事情もあった。

清国の冊封国、朝鮮は凡そ独立国家とは呼べない状況であった。閔氏政権の重税政策と両班たちの賄賂と不正収奪の横行、そして1876年の日朝修好条規を始めとした閔氏政権の開国政策により外国資本が次々と進出してくる中、朝鮮民衆の生活は極めて苦しい状況にあった。朝鮮政府の暴政に対し次のような詩が朝鮮国内に広く伝昌されていた程である。

『金の樽に入った美酒は、千人の血からできており、玉椀にある美味い魚は、人民の油でできている、蝋燭から蝋が滴るとき、人々の涙も滴り、歌舞の音楽が高く鳴り響くとき、人々の怨嗟の声も高く轟く』

朝鮮の改革を巡っては、壬午事変や甲申政変のような政変があったが、何れも蜂起は失敗に終わった。こうした中で政権を手にしていた閔氏は、自らの手で改革を行なう事ができずにいた。このつけは全て民衆に振り向けられ、民衆の不満は高まり、1883年から各地で農民の蜂起が起きていた。

民乱が収束し、朝鮮は日清両軍の撤兵を申し入れるが、両国は受け容れずに対峙を続けた。〈日本は清に対し朝鮮の独立援助と内政改革を共同で行なう事を提案〉し、英国も調停案を清へ出すが、清は「日本のみの撤兵が条件」として拒否した。

日本は朝鮮に対して、「朝鮮の自主独立を侵害」する清軍の撤退と清・朝間の条約廃棄(宗主・藩属関係の解消)について3日以内に回答するよう申入れた。この申入れには、朝鮮が清軍を退けられないのであれば、日本が代わって駆逐する、との意味も含まれていた。当時の日本は何と毅然とした主権国家であったのであろう。

これに朝鮮政府は「改革は自主的に行なう」「内乱が治まったので日清両軍の撤兵を要請する」と回答してきた。その朝鮮国内では大院君がクーデターを起こして閔氏政権を追放し、金弘集政権が誕生した。金弘集政権は甲午改革(内政改革)を進め、〈日本に対して牙山の清軍掃討を依頼〉してきた。そして豊島沖海戦、成歓の戦いが行なわれた後、8月1日に日清両国が宣戦布告をし、日清戦争が勃発した。〈朝鮮政府の依頼で日清戦争は始まった〉のである。韓国人・在日韓国朝鮮人、そして多くの日本人はこのような史実は知るまい。

日清戦争の原因について開戦を主導した外務大臣 陸奥宗光は、「元来日本国の宣言するところにては、今回の戦争はその意全く『朝鮮をして独立国たらしめん』にあり」と回想した(『蹇蹇録』岩波文庫)。近代化された日本軍は、近代軍としての体を成していなかった清軍に対し、終始優勢に戦局を進め、朝鮮半島および遼東半島などを瞬く間に占領した。

日清戦争の講和条約は、1895年3月20日、下関の春帆楼で清国全権 李鴻章と日本の伊藤博文、陸奥宗光両全権との間で、会談は3回に亘って開かれた。3回目の会談の帰途、李鴻章が狙撃され負傷する事件が起った為、日本側は急遽軟化を余儀無くされ、同 30日休戦条約を締結、次いで4月17日、日清講和条約 11箇条が調印された。

『日清講和条約11箇条(下関条約)の主な内容』
1)朝鮮の独立を認める事
(この直後、朝鮮は大韓帝国と国名を変え、独立を宣言する)
2)遼東半島を日本に譲り渡す
(支那と朝鮮の間にある半島で日本の戦略的にかなり重要な土地)
3)台湾を日本に譲り渡す
(これにより日本は初の海外植民地として台湾を獲得した。)
4)澎湖諸島を日本に譲り渡す
(これは台湾と支那本土の間の島々)
5)賠償金2億両を日本に支払う
(約3億1000万円。当時の日本の国家予算の2倍以上のお金)
6)日清通商航海条約を結ぶ
(清に欧米と同条件の不平等条約を日本とも結ばせた)

条約というものは、一番重要な事を第1条に持ってくるものである。第1条を正確に表現すると、『清国は朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国である事を確認し、独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止する。』とある。正に清国との戦争目的は「朝鮮の自主独立」であった証である。大韓帝国として史上初めて自主独立させて貰った事を、韓国政府と在日韓国朝鮮人は知るべきである。

然るに、大韓帝国は国家運営も真面にできずに国家を破綻させ、国内はもとより日・清・ロの間でも、陰謀と裏切り行為を繰り返した果てに、大韓帝国の王 純宗、李完用首相と当時最大の政治結社「一新会」を中心に「日韓併合」を求め、4回に亘って渋る日本に併合を要請してきた。日本は4回目の懇願に応えて「日韓併合」に踏み切ったのである。

1910年(明治43年)8月22日に、韓国併合条約が漢城(現在のソウル特別市)で寺内正毅統監と李完用首相により調印され、同月29日に発効、大日本帝国は大韓帝国を併合し、その領土であった朝鮮半島を領有した。一体これのどこが「日帝強占」なのか?用語も意図的に変えられている。「日韓併合」は、植民地化では無く、飽くまでも「併合」または「合邦・合併」である。

日本人による統治も欧米列強諸国群が目を見張るほど生真面目で慈愛に満ちたものであった。日本の統治の成果は一々挙げたらきりが無い。朝鮮の庶民は元々ほぼ100%文盲であった。数%の両班などの貴族階級と王族たちが漢文を扱えたに過ぎない。1886年に井上角五郎が埋もれ散逸していたハングル文字を体系化して、朝鮮で初めてハングル文字による官報や新聞を出した。朝鮮では当時30%以上が奴隷であったが、総統府は階級制度や拷問などの因習を禁じ、度量衡を統一し、学校を建設して、等しく文化的な生活ができる様にした。

また、全くと言って良いほど無かったインフラ(道路・鉄道・橋・ダム・商業施設)などを造り、治山治水を教えた。植林を指導して禿山を無くし、灌漑設備を整え、効率的な稲作も教えた。35年間で朝鮮の人口が倍増したのは病院建設などで近代医療を普及させた事と穀物生産が3倍増したからである。その結果、毎年餓死者を出していた朝鮮半島から日本内地に米を販売するまでになった。産業無き朝鮮半島に産業を齎したのである。これらを今の韓国では「日帝の植民地搾取」「産業の収奪」と教育しているのだから呆れる。

繰り返す。朝鮮人は日本による被害者などでは断じて無い。韓国政府・韓国人・在日韓国朝鮮人は「正しい歴史を直視しなければならない」。そして日本政府も国民に「正しい歴史教育をしなければならない」。両国ともに、歴史観を正さなければ、必死に生きたご先祖様に申し訳が立たないとは思わないか?


石川 久遠氏フェイスブックより転載
6 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する