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2016年04月19日17:00

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2016年地元スポット☆ファイル4 屋嶋城(やしまのき)。

熊本大地震の惨事。
まだまだ余震が続いており、予断を許しませんが、被災された方々のお見舞いと亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。
私も訪れて石垣の凄さに感動した熊本城跡も被災して復旧には20年とも言われており、悲しいことです。
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さて、日記ではご無沙汰していました。

そんな9日ぶりの日記は、熊本城からも連想される城跡巡りと参ります。
その城跡は、2007年から復元がすすめられていた古代山城(朝鮮式山城)である屋嶋城(やしまのき)です。


※いにしえの屋島は南北5キロメートル、東西2キロメートルの台形の島であり、海外交流、交易の主海路に面した要衝でした。
当時の屋島は、高松集落のすぐ前に浮かぶ文字通りの島であり、現在の住居表示で「古高松」という地域が中心集落でした。ちなみに現在の高松港辺りは海の中だったとのことです。江戸時代の塩田開発と後の埋立にともない、徐々に陸続きのようになっていった模様です。
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城の始まりの経緯は唐と新羅の連合軍に攻め滅ぼされた百済を再興するため日本が救援軍を朝鮮半島へ派遣した白村江の戦い(663年)の大敗。これを契機として唐、新羅の侵攻に備えて667年ごろから対馬、太宰府周辺、瀬戸内海沿岸に作られた朝鮮式山城の一つで日本書紀にも屋嶋城の名が記されています。

年代的に長らくその実体はよく分からず「幻の城」と呼ばれてましたが、1998年2月に南嶺山上部近くの西南斜面において石積みが発見されたことを契機にして、南嶺北斜面、南斜面で確認されていた土塁と関連することがわかり、東斜面でも同様の地形が確認されたことから、山上部付近の斜面に断続的ながら古代山城屋嶋城の外郭線(防御ライン)が巡っていることが判明しました。約17年におよぶ発掘調査によってその全体像が少しずつわかりかけています。
【ウィキペディア、高松市公式ホームページより抜粋】


そんな背景の屋嶋城は2016年3月19日から復元城門、石垣が一般公開されており、例のごとくJR屋島駅からシャトルバス(片道100円)にて屋島南麓の駐車場まで向かいます。
おっ!起点のJR屋島駅前は鯉のぼりバージョン。
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バス停のある南麓駐車場から北へまずは四国霊場84番札所屋島寺を抜けます。(昨年、覆われていた東大門の補修はできていました。)
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本堂から西に四天門を抜けると瀬戸芸2016作品ナンバー179 長谷川仁作「猪おどし」を発見!さらに進んだ仁王門を抜けた場所でも同様の作品がありました。
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春開催は一昨日の4月17日で終わっているのでスタンプはなく、写真のみパチリ。
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仁王門から南に屋嶋城跡まで430mの道標あり。
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到着してまず見えるのはサンポートや五色台の絶景。せっかくの晴れなのに霞がかっていたのだけが惜しい・・・古代の人々は今よりもっと海の多い地形を見ていたんでしょうな〜。
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調査の結果、屋嶋城の門は「懸門(けんもん)」だということ。
懸門とは石垣の一部を一段下げて門としているもので大陸では古くからある様式なのだそうです。下には地下水を排出する水口が設けられています。
この石積の上には「甕城(おうじょう)」と云われる構造を設け、敵の頭上から攻撃ができるものした。、このような構造も当時の朝鮮半島にあった城造りの技法なんだそうです。
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ちなみに石は他所から持ってきたものを積んだのではなく、もともと崩れかけた石垣を写真に撮って一つ一つをナンバリングして石工が積みなおした、非常に手間のかかったものだそうです。高さは地中に埋まっていた部分も含めて5、6mほど。
そんなこだわりの石積みや復元に思いを馳せながら今年二度目の屋島を後にしました。
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