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2016年02月13日19:11

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劇団・解体社〜都心散策、大久保交流会、歌舞伎町

 2月2日に市ヶ谷にある劇団・解体社の演劇「セリーヌの世紀」三部作の第二部「虫けらどもをひねりつぶせ」のトークセッションのために東京へ行き、次いで、東京とその近縁に在住の人たちとの交流会を行ってきた。
 市ヶ谷で、スガ秀実と太田出版の綿野恵太、書肆子午線を去年立ち上げた春日洋一郎の3氏と会い一時間少し歓談した後、迎えに来てくれた解体社の森澤友一朗君に案内され劇団の在る左内坂スタジオへ向かう。近くに、かつて三島由紀夫が自決した現場もあり、また左内というのは安政の大獄の橋下左内に関係した名称であり、そこでのセリーヌの劇とは、何やら予感を感じさせる。
 劇は、解体社のスタジオで行われ、ステージというものはなく、簡単な椅子や座布団が並べられた客席の、ほんの目の前の、手で触れられるような距離での上演だ。この日は、いつもの倍近くの約50名ほどの観客がスタジオを埋めた。劇は、森澤君の前口上的なセリーヌの反ユダヤ主義の紹介的なセリフから始まる。劇にはドラマ的なセリフはなく、その意味では説明的な演出は皆無であり、セリーヌ的な空間の生政治的な要素が身体的に表現されるといえばいいだろうか。解体社は、かつての暗黒舞踏として知られた土方巽の流れを汲む演劇結社とのことだから、その表現もまた身体的であり肉体言語的でもある。
 劇が終わると観客の前面に椅子が三脚用意され、招待された私が真ん中に、左側に司会役の森澤君、右側に演出の清水信臣氏が座り、トークセッション「皆殺しのための戯言」が行われた。私が話したことを事項的にかいつまんで言えば、同時代の確信的なフランス・ファシストでありセリーヌに勝るとも劣らない反ユダヤ主義者でもあったリュシアン・ルバテとの比較によるセリーヌの反ユダヤ主義の特徴、また戦前は極右であり『戦闘』誌のイデオローグでもあったブランショとの関係、ドイツ占領下におけるフランスのレジスタンスの虚構と対独協力の現実、セリーヌやルバテなどの反ユダヤ主義思想と異なるナチスが行ったホロコーストのナチス的な倫理的背景、等々になろうか。次いで、質疑応答となったが、私の目の前に、ぎっしりと座る観客の人たちの中から次々と質問があり、また「私もファシストです」という青年との濃密な質疑応答などで、トークセッションは約2時間弱ほどだったが刺激的なものだったと思う。それゆえか、その後の飲み物が用意された二次会には約30名ほどの人が残り、その後も延々と話が続けられた。私も、早朝近くまで歓談を続けたが、次の日の正午から、別に昼と夜の交流会を予定していたので、解体社が用意してくれたスタジオの二階にあるベッドで眠りについた。午前8時頃に眠り、10時頃に目が覚めたので2時間ほどしか眠っていなかったが、下のスタジオではまだ、演劇評論家の鴻英良氏ら残って話している声がしていた。
 大阪から、難波・味園ビルのTorary Nandでの定例研究会の幹事的存在の尾崎全紀君が、Torary主催の小灘精一君の車で東京に来て(小灘君は所用で折り返し帰阪)、解体社の劇を見、二次会にも残っていたので一緒に、2月3日の昼の交流会の待ち合わせ場所である新宿駅東口のアルタ前へ向かった。アルタ前には、10代の大阪浪共闘以来の戦友でもある元解放派で、今は渋谷在住の極左国粋派の川嶋康裕、20代後半の詩のグループ以来の友人の金澤裕史、前回の交流会にも来ていた柳さやか嬢、アトレイデス君(SNSでの交流名)、ラノベ作家でもある朧塚君その他がすでに来ており、歩きながらの交流会ということで、まず、近くの新宿御苑へ向かった。30歳の頃、御苑近くで詩のグループの友人が会社をしていたことから、そのあたりは馴染みのある処でもあり、近くには新左翼系の書籍を販売している模索舎があり(私も1970年頃はよく立ち寄ったことがある)、また、今は療養中の元ブント・マル戦派の、当時は私と同年代の高校生だった書誌研究者の府川充男君が、1968年の新宿騒乱罪の時、それに参加しており、新宿御苑の中を千駄ヶ谷の方へ駆け抜けて、機動隊の包囲網を突破したという話を聞いていた。新宿御苑の中は、都心の新宿とは思えないほど静かであり、緑も多く、また、この日は散歩日和の快晴だった。最初は、持参のタブレットに、移動しながら現在地を告知していくつもりだったが、途中で面倒くさくなりやめてしまった。新宿御苑から千駄ヶ谷門を出、事実上、川嶋君の先導で靖国神社へ向かい、かつての近衛師団司令部(敗戦時、玉音放送阻止派の陸軍省の畑中少佐らのグループが森近衛師団長を殺害し、偽の命令で近衛師団の部隊を動かした処)日本武道館から北の丸出口へ出、内堀通りを歩き、東京駅の正面に出た。後で聞くと約10キロほど歩いたらしい。2時間ほどしか眠っていない私は、しかも、かつてのゲバルトで左足に負傷し、還暦も過ぎ、歳をとることでその後遺症とでもいうものが出てきた私には、少しきついものがあった。
 東京駅で、大久保での夜の交流会にも参加する者と、そうでない者に分かれ、私をはじめ参加組は、山手線で大久保のジョナサンへ向かった。ここは、数年前、飯田橋で行われた元高校全共闘の集いで、かつての中核派、解放派、赤軍派、戦旗派、叛旗派、マル戦派、アナキスト(ARF)からノンセクトまで約80名ほどが集まった時、やはり次の日の私の交流会の場にしたところだった。始まった当初は、7〜8名ほどだったが、三々五々、人が集まり、最少的には20名以上になっただろうか。旧知の友人や知人をはじめ、ルポライターの昼間たかし氏や森田暁氏をはじめFacebookやTwitterでも交流のある人、また場所を間違え、その書き込みを見た山本桜子嬢から携帯で正しい場所を教えられ、遠隔操作されてやってきたという佐藤聡氏、拙著『思想からのファシズム』(彩流社)の巻末のインタビュアーでもあり、今は病気の療養中でありながら元気な顔を見せてくれた松平耕一君、白面の青年のトモサカ君、昼間の睡眠で昨日のアルコールを抜いてきた解体社の森澤君など、左翼から右翼、ファシストからアナキスト、ムスリムからノンポリまで、いろんな顔が見られた。ところが、私は先程も書いたが、寝不足と昼間の歩きのため、かなり疲労しており、尾崎君のアドバイスに従って少し眠ることにした。その間、みんなは、それぞれグループに分かれ、よくあるような現状肯定の延長のような改革や改良や政治分析ではなく、世界を獲得するための革命論や世界情勢論、運動論などに話が興じていたようだ。私も、後半、元気を取り戻し、話の輪に加わった。(交流会に参加していた平山昇氏の文章を数日前にシェアしてあるので、そちらも参照されたい。)こちらも、話は夜を徹して延々と続き、早朝に解散し、私と尾崎君は、再び新宿へ戻った。その日の謎の宿泊先ともいうべき、歌舞伎町の路地の奥にある細長い急な階段を登った処にあるラスコーリニコフの部屋のような店である砂の城へ向かった。そこには大久保での交流会から流れてきた昼間氏の姿があり、先に客として来ていたラノベ作家やその連れ合いと、しばし話をした後、その上にある、まさにラスコーリニコフの屋根裏部屋のような空間で尾崎君と共に眠りについた。若い頃、パリでも野宿生活をしたことがあるという尾崎君は、眠ることについては歴戦のようであり、すぐさま深い眠りについていた。
 翌日の正午頃に目覚め、尾崎君と私は、それぞれの個人的な所用で分かれ、私は上野へ、尾崎君は埼玉の方へ向かい、その日の夜、私は新幹線で大阪への帰途についた。

※Facebookの方には、もっと多くの写真と説明がある。https://www.facebook.com/chisaka.kyoji
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