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2016年02月04日22:04

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「19歳少年」の幼稚さ

■19歳少年に懲役10〜15年求刑=「残虐、悪質」と検察―中1殺害、10日判決
(時事通信社 - 02月04日 15:01)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=4&from=diary&id=3836394
少ない情報ながら、19歳少年の言動には、年齢にふさわしからぬ幼稚さが見えています。

1、暴行した相手が、5歳年下で、「自分への態度が面倒臭そうだったり、タメ口で話し掛けてきたりした」相手だったこと。
2、告げ口を恨んだことが、もともとの原因だったこと。
3、報復への恐怖で、暴行がエスカレートしていること。
4、殺意の決意は、きっかけは「カッターを渡されたこと」で、「1人なら(殺害)しなかった。ナイフを渡され仲間がいたことが大きい」、「自分の代わりにやってほしいという思いと、止めてほしいという気持ちが半分半分だった」と供述していて、自分の行動が「周囲(他人)任せで、自分で制御できてない」こと。
5、謝罪は、「上村さんに痛くて怖い思いをさせて申し訳ない」という、子どもの共感的な捉えかたで、相手の将来の可能性や家族の愛情や希望を奪ったといった、「被害者の人生を奪ったという認識に欠けている」こと。
6、この19歳少年の成育歴には、「しつけ」と称する親のきびしい暴力があったこと。

つまり「恐怖による親のしつけ」によって、「19歳少年」は、親の愛情が得られる「周囲に従順な(言いなりになる)子」と、「苦(愛情剥奪)を与える親(相手)」への激しい憎悪を持つ子」の2人の自分」に分裂している、「幼児期の子ども」段階にいます。
親の暴力による、「発達障害」が考えられます。

で、ふつうの子どもは、この「快と苦」の葛藤を繰り返すなかで「他者認識と自分意識」が育つのですが、「親の権威が恐怖で絶対的」ですと、親が見ている範囲では、親の指示に従っていればよいわけです。
しかし仲間関係では、「自分と他人の欲求の対立」を、自分自身の力で解決する力が育ってないので、困難を自分で克服する「問題解決への自信」が成立できなくなります。
こうゆう子どもでは、「快」も「苦」も、周囲から与えられるものになって、周囲への強い依頼心と、憎悪を含む恨みとを、いつまでも(高齢者になっても)維持します。

しかもこのタイプの子どもは、暴力つきのお説教に慣れてますから、大人に気持ち良くお説教の場を提供して、その場は涙ながらの反省はしますが、行動修正は滅多に実現しません。

で、こうした自我が弱い子は、他人との境界がアイマイになるので、自分のなかに不快な感情がわきあがると、それを他人のせいにして、自分の中に取り込むことが出来ません。
「19歳」は、「5歳年下」を相手に、「態度が面倒臭そうだったり、タメ口で話し掛けてきたりした。1月に暴行したことを告げ口されたことにもいらついていた」と供述しています。
この時期の少年にとって、「5歳下」は、普通「オジサンと子どもの成長差」があるのがあるんじゃないかな。

*この弁護士は、どうして「発達障害」を、情状酌量を求める理由につかわなかったんだろう?
裁判で、「19歳少年」の父親を証言させているので、配慮はあるのかとは思いますが、無いとすると、この弁護士は、少年事件の弁護人としては、基本的資質に欠けてます。

一方、こうした子ども同士の主観的情緒にのみ立脚した「友情」は、相手の気分次第で、いつ裏切られるかわからない恐怖が背後にありますから、過剰に一体化を求めたり、相手の行動を支配したがります。
このケースでも、「告げ口」という、「仲間」ではない「他人」の行為が、恐怖を呼び、他人は過酷で残酷なバケモノに見えてきます。

マスコミがは、「暴行の残忍さ」を強調するだけで、その「残忍さ」の原因を探ろうとはしていませんが、この「残忍な暴行」こそが、この事件を考える上でえの一つの鍵です。

こうした子どもにとって、「苦」は幼児期の「機嫌の悪い親(愛情剥奪)」が発生源ですから、自分に苦痛を与える相手や周囲には、激しい憎悪を向けます。
しかもこのとき、「自分のなかの相手への憎悪」は、否定されます。
なぜなら「親に悪い感情を持つ自分」は、「親に捨てられる悪い子」ですから、「怖い親への恐怖」から、とうていその感情は維持できません。
「良い子の自分」と「悪い子の自分」が、平気で一人の中に分割されて、存在してしまいます。

そこで自分のなかの憎悪は、相手側のものとされ、相手が自分に持つだろう「自分への憎悪」は
増幅され、「八つ裂きにされる報復」として妄想されます。
こうしてそれまで仔犬のようにジャレあっていた仲間内で、突然に殺意が湧きあがり、激しいイジメや障害事件に、発展するわけです。

こうしたタイプは、依存的で幼稚な満足にだけこだわるため、生産的に自分を変えていく可能性が低く、学習に必要な「抑制・禁欲・知性化」といった心の構えが育たないので、大人になると、「無力で虚無的な自分」に苦しんで、異性関係やアルコール・薬物に依存したり、死後の世界での「優しい母親」との融合を夢みて、希死念慮にふけったりします。

自分の命に自信がないのですから、他人の命は、ますます軽くなります。
「発達障害」の青年の特徴として、「共感性が乏しい」というのは、本人自身が生きている実感に乏しいからです。
「こゆうとき、どうゆう顔をすればよいのか、わからない」とつぶやく綾波レイの失感情症は、こうした「共感能力の欠損」からきている、超絶な孤独感をしめしています。

子どもが中学生になっても、親がいつまでも「正し」かったり、まして批判されることを恐れて、親の権威を暴力的に押し付けているような幼稚な親が、こうした子どもを育てます。
検察側が指摘する、「19歳少年」の、「一方的に暴力を振るい、哀れみなど人間的感情が全く感じられない」暴力の原因も、ここにあります。


実は「19歳少年」の「反省の意」と検察側が認めた、「上村さんに痛くて怖い思いをさせて申し訳ない」という言葉は、「19歳少年」の「幼稚な共感性」からの、「恐怖」が言わせている言葉で、これを「反省の意」ととらえることは、「大人の解釈」にすぎないのでは?という疑問があります。

検察側が、、「一方的に暴力を振るい、哀れみなど人間的感情が全く感じられない」犯行とする判断と、情状酌量の根拠になった「反省の意」で、「無期懲役の適用はちゅうちょする」こととが、どう論理的につながるのか?が、ニュースでは出てきません。

言葉というのは、プロセスの結果なわけで、言葉だけ並べられても、流れが見えなければ呪文にすぎません。

だからこの検察側求刑根拠のニュースでの「要約」では、この事件の基本的要因である「19歳少年の発達障害的幼稚さ」を、どこまで理解した上で、その更生の機会や成長を期待しているのかが、解りません。
ただ、こうした幼稚な「快・苦」の二元論で生きている「19歳少年」の矯正は、「幼稚さゆえの試行錯誤と混乱と葛藤」を通じて成し遂げさせるしか、方法はないわけで。

この「19歳少年」の場合、「5歳年下の少年」を、「一方的に暴力を振るい、哀れみなど人間的感情が全く感じられない」暴行で殺害した事実を糧に、自分の成長を図るしか、更生の道はないわけですが、それを支えるシステムは、あるのでしょうか?

とはいえ実際これは頭でわかっても、創造的行動に結びつくことが難しいことは、高齢者の犯罪率の高さからも、解ります。
ワタシも70歳にして、発達障害だった親の虐待の後遺症に、今も日々苦しんでいます。


で、こうした事件がおこるたびに、報復主義的な議論が起こりやすいのですが。
しかし、原始的な報復主義は、国民の社会意識の根底を危うくします。

一方、現実には、日本の刑務所では、こうした未熟な人格障害への治療的配慮は、出来ているとは思えません。
実際、保護司関係の方からは、再犯防止への予算は、極めて少ないと聞いてます。

またかなり悪質な事件でも、弁護士の入れ知恵で、裁判所側に受け入れられやすい例文で、「反省のポーズや家庭的更生環境のポーズ」とかをデッチアゲルと、刑期が短くなる例も、いくつも見ています。


なんであれ、被害者の「痛くて怖い」思いを、われわれが我が物として、そこから何を学ぶかが大切じゃないかなあ。

この検察側の求刑やニュースを書いた記者には、そうした配慮が、あるんだろうか?

そしてこの検察側求刑を受けた裁判員や裁判官は、「19歳少年」の暴行にいたる経緯を、せめてそうした青年の心の構造に詳しい専門家を呼んで話を聞くとかの努力をして、「19歳少年」の精神状態に即して事件を理解する配慮は、出来ているんだろうか?

「反省してます」、「じゃあ、情状酌量」の紋切り型パターンの、検察側と弁護側の定番の繰り返しだけでは、もはや裁判員も国民も納得しないんじゃないかな。


少子高齢化が進む21世紀の日本が、せめて青少年を大切にする成熟社会になるためにも、ポピュリズムに迎合した専門家のルーチン・ワークではない、10日の「裁判員の判決」には期待してます。

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