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2016年01月20日00:33

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真田丸の人々 その2

その2
今回は、真田家を取り巻く勢力について・・・

北条家・・・元々は、駿河の守護だった今川家の家臣、初代・早雲は、今川家の家督相続に介入、伊豆から、小田原城を奪取して勢力を築く、三代目・氏康は名君として名高い、日本三大夜戦の河越夜戦で、8万の大軍をわずか8千で打ち破った その後も、武田信玄、上杉謙信と渡り合う

北条氏政 1539〜1590
(配役 高島政伸)
北条氏4代目、父・氏康の後を継ぎ、北条氏の最大の版図を築く、しかし、中央では信長に変わり、豊臣秀吉が台頭、四国・九州までも支配下においていた。

何度も、秀吉に上洛を促されるが、これを拒否、隣国で盟友・家康も秀吉に取り込まれ孤立、秀吉に攻められ、今まで難攻不落の小田原城に籠城するが、数ヶ月の籠城の末に降伏、所領没収の上、秀吉に切腹を命じられる・・・5代、約100年続いた北条家は滅亡した


上杉家・・・元々は、越後の守護代、長尾氏、
謙信の父の時代に下克上を起こして、越後の支配を固める、謙信の時代に関東管領・上杉氏が頼ってくると、これを受け入れ、関東管領・上杉氏を名乗る

以降は、秀吉に臣従、会津120万石を与えられた、しかし、関ヶ原で西軍に付いたため、戦後、出羽米沢・30万石厳封された。家臣の直江兼続や前田慶次が有名

上杉景勝 1556〜1623
(配役 遠藤憲一)

上杉謙信の甥、謙信に実子がいなかったので養子になる。謙信死後、家督争いに勝って、上杉氏を相続、本能寺の変後は一貫して秀吉に従い、五大老・会津120万石を与えられた。

しかし、関ヶ原で西軍につき、上杉軍は直接、参戦しなかったため、東北で東軍の最上義光、伊達政宗と争うも、勝敗はつかず、西軍が関ヶ原で敗れたため、戦後、厳封された。
感情を表に出すことがほとんどなかったといわれる。


徳川家・・・元々は徳阿弥という僧侶が松平家に婿入りしたのが始まり、その頃は、三河の豪族に過ぎなかった・・・転機は、家康のとき、まだ、家康が今川家の家臣で松平元康と名乗っていたが桶狭間で、今川義元が横死、この時信長と同盟し、独立を果たす。

東に北条家、北に武田家、西に織田家に囲まれる中、武田、織田氏など、巨星が没落していく中、最後の秀吉の死去したあと、見事天下統一を果たす。御年60・・・我慢に我慢を重ねた結果だったわーい(嬉しい顔)

徳川家康 1543〜1616
(配役 内野聖陽)

江戸幕府250年の基礎を築いた人、子供の頃には人質、自分の息子に自害を強いられ、同盟国の信長にも振り回されても、じっと時勢を待ち、ついに天下人になった。非常に健康に気を使ったことでも有名で、日頃の食事も質素だった、生薬にも精通し、自分で調合して薬を作っていたほどの知識に優れる。
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