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2015年10月06日10:40

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矢幡治美に学べ

「TPP大筋合意」困惑の農家も
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=3649503

『■大山農業のカミサマ
  大山の基本設計をした人は矢幡治美です。
  村長と農協組合長を兼ねて16年、農協組合長だけだと33年の長きにわたり、”大山の父”と呼ばれた人です。1993年に81歳で亡くなりましたから、今では”大山のカミサマ”になりつつあります。
  大山村の農協組合長を引き受けた背景には、人生の師であった金光教会日田教会の堀尾保治協会長の言葉があったのかもしれません。自分の家族を大切に思う人は多いが、それを超えてさらに周囲の人びと、ひいては村ぜんたいの人びとの幸福を願うのが真の信心だ、と堀尾保治教会長は語っています。
  こうして矢幡治美は一人の資産家から、村のために人生を賭ける公人となったわけです。

■希望を説く
  1950年代は日本中が敗戦後の貧しい時代でしたが、とりわけ山間の大山は農業収入が大分県最下位。もともと土地が少ないために明治大正時代から山林労働や出稼ぎの現金収入で食べてきた村でした。そうやって農業収入が少ない上に戦後の経済的逼迫で現金収入の道まで断たれたのですから貧しさの極みと言えます。
  栄養失調で青ざめ疲れきっている人びと。結核患者が多い、けわしい地形での重労働で足腰を傷めた老人が多い。そんな人たちに何を語っても、言葉が空しく吸い込まれていく気がしたにちがいありません。それでも矢幡治美は役場と農協の幹部ともども毎晩毎晩、各集落をまわって、あなたがたは農協に何を期待するかと尋ね、また、私たちの将来ヴィジョンはこうだと説いて歩きました。組合長になってからには後に退けない。ピンと張り詰めた緊張感が漂っていました。

■コスト計算
  「 これから先の時代、コスト計算ができれば農業は必ず儲かる」と、かつて農業で全国表彰されたことのある大分メンテナンスの社長、谷口来さんは断言します。「農家が稼げないのはコスト計算ができないからだ」と。大山の設計もこのことを証明していると言えます。矢幡治美は造り酒屋の後継ぎであり、製茶などの事業を手がけてきたバリバリの経営者でした。おそらく戦後の日本で最初に、農業にコスト計算を導入した人物だったのではないでしょうかと思います。

■信念
  1962年(昭和37年)山間の地に最も適した作目として大山はウメとクリを導入しました。それも、なまじの決意ではなかったのです。何年もかけて周知に調査し、村の人たちには一軒ずつ口コミの情報を流し、各団体ごとに研修に出てコンセンサスを取り付けた結果でした。

■読み
  大分県の山の中に居ながら、大山の人たちは30年後の日本の食生活を予想していたフシがあります。それは本やテレビによる情報ではなく、ヤハタハルミというセンサーが1959年(昭和34年)という早い時期から何度もアメリカへ行ったせいだといえます。その頃は一般の人がアメリカへ行く機会などほとんどありませんでしたが、日田市の大河原病院院長が同級生だった縁で、矢幡治美は病院の事務長に化けたわけです。かくして世界医師会があるたびに医師団に加わり、欧米を貪るようにしさつして回りました。モノがあふれ、生活がゆたかだけれど、公害やストレスの問題を抱えているアメリカの都市。高齢化がはじまり、生産性が落ちてみんなが高い文化を楽しんでいるヨーロッパのまち。日本がいつかたどっていく道だろうと、矢幡治美は鋭く読んでいました。』
http://www.oyama-nk.com/rinen/sekkei.html

『第7回「私がもっとも影響を受けた首長」
――知事に続いて、市町村長についてもお聞きしたいのですが?

 私にとって、地域経営あるいは自治体経営の原点ともいうべき存在があります。それは大分県旧大山村(現日田市)の村長を務めていた矢幡治美(やはたはるみ)さんです。

――「ウメ・クリ植えてハワイへ行こう!」をスローガンにした方ですね。

 その通りです。平松守彦知事がはじめた「一村一品」運動の元祖ともいえる人物です。昭和30年代のことですが、全国的にはコメの増産が求められていた時代に、耕地の限られた中山間地はより高付加価値な農業を目指すべきだと考えて構造改革を進め、土地に適した品目としてウメ・クリを選び、村を挙げての作物転換に取り組んだのです。

 矢幡村長は自ら集落を回って転作の必要性を説きました。目指すのは「粗収入7桁農業」です。7桁とは百万円のことです。当時の私の年収が二十数万円でしたから、いかに意欲的かがわかると思います。「ウメ・クリ音頭」をつくって村民を鼓舞し、念願かなった初めてのハワイ行きではお揃いのハッピ姿でテレビを賑わし、現在に至るまで住民のパスポート保有率は日本一を保ってきました。
――矢幡村長とはどういうつながりがあるのですか?

 1960年、私は建設省の用地課長として、筑後川の支流である津江川に建設される下筌(しもうけ)ダムの現地事務所に勤務していました。このダムは反対闘争が熾烈を極めたことで知られています。反対派住民は建設予定地に砦を築き「蜂の巣城」の攻防とも呼ばれました。

 用地課長の仕事は、水没する土地の補償対策です。対象となる5町村の一つが大山村でした。当時の補償は個人財産に関するものだけで、水没によって大きな影響を受ける地域社会の再建策や振興策などはまだ確立していません。地元から出てくる要望はすべて私がさばく立場にありました。「権限がない」とか「制度上できない」と、さまざまな要望を前に悪戦苦闘する中で、「敵ながらあっぱれ」とたびたび感心させられたのが矢幡村長でした。

 矢幡村長は、ダム建設絶対反対を唱える他の町村長とは一線を画し、条件付賛成を打ち出して国との協力関係の中で村づくりを進めました。手始めにダムの現地事務所を誘致したのですが、ダムの竣工後には建物を村の施設として活用することを見越していたのです。これを皮切りに、一部分だけが移転対象だった小学校をたび重なる交渉の末に全面建て替えに持ち込んだり、工事用道路の拡幅に率先して協力するかと思えば、今度は安全確保のために迂回道路が必要と主張して将来のウメ・クリ団地用の基幹道路を新設したりという具合です。トンネル工事の土捨て場が、いつの間にか宅地に姿を変えたりもしました。また、川沿いの細長い村全体に有線放送を張り巡らし、気象や農業情報を提供して農家の育成に役立てました。もちろんこれもダム補償の一環です。

――ウメ・クリの一方でそうした手腕はあまり知られていませんね。

 村全体が、米作中心から果樹中心の農業に転換するには時間と費用がかかります。村の財政力が弱いことから、ダム関連の公共事業に着目してこれを村の再建計画に取り込んで道路や施設を整備していったのです。その手腕は、交渉相手である私からみても実に見事なものでした。
 矢幡さんは、国の公共事業と大山村が必要とする事業をセットにして進めることで、財源が乏しくても地域の基盤整備はできるということを示しました。それは、ダム建設だからといってダムのことだけを考えるのではなく、常に村全体を総合的に発想するからこそ出てくるアイデアなのです。

――総合的な視点を重視することが、末吉流の「横糸発想」に通じます。

 たとえ財政力が弱くても、知恵を絞って良い全体計画をつくり、与えられた制度をうまく使いこなし、トップがリーダーシップを発揮すれば成功の道が開けるという信念を、私は矢幡さんに学んだのです。また、首長には政策能力に加えて、それを実現するための経験や知識に基づいた交渉力・折衝力が必要なことも教えられました。

 そのため市長に就任後、市の職員を大山町(当時)に派遣しました。新聞が「百万都市から五千人の村に勉強に」と報じたくらいです。目的はCATVの視察にしていたと思いますが、私としては大規模自治体では実現しにくい総合行政の現場を体感してもらいたかったのが本音です。

 当時は、財政力の弱い自治体も国の財政制度を活用して文化ホールなどのハコモノ施設を競って整備していました。しかし、大山はそうした投資には目を向けません。替わりに町がバスを出して日田市や福岡市に観劇ツアーや買い物ツアーを行うのです。これは交通網の整備による生活圏の広がりからすれば当然のソフト政策なのですが、横並びでハコモノを求める住民の声を尻目に、首長として建設しないと決断するのはなかなか容易なことではありません。政策の優先順位にメリハリをつけることは、財政状況が厳しさを増す今日こそ首長に求められる重要な能力です。

――いま振り返って、首長として矢幡村長に肩を並べたと感じますか?

 とんでもない(笑)。私は政令市長は務まっても矢幡さんのような村長にはなれないと常々思ってきました。村長という仕事は、単なる地方公共団体の長というだけではなく、地域の地縁、血縁すべてを含んだ「むらおさ」つまりコミュニティリーダーとしての役割が求められます。市町村長とひとくくりにしますが、コミュニティの運営と広域的な都市経営は全く性質の異なる仕事ではないかというのが率直な実感です。それにしても、矢幡治美さんという傑物に私が若い頃にめぐり合えたのは幸せなことでした。

 「一村一品」の取材を目的に大山町を訪ねたことがある。矢幡治美氏は93年に故人となっていたが、話を伺った役場や農協の方々にそのイズムが脈々と受け継がれていることは容易に感じ取ることができた。それは「計画とは北極星のように動かないもの」と語る末吉イズムにも通ずるものがあるように思われる。』
http://research.php.co.jp/leadership/7.php

極貧の寒村が生まれ変わったのが、固定概念からの脱却と、コスト管理。

どの産業でも、当たり前にやっていること。

https://www.youtube.com/watch?v=OxNg3r0YKgY

大分大山町農業協同組合

ちなみに、この町の梅農家で生まれたのが諫山創氏。
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