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2015年09月23日06:38

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松居 友さん

松居 友
20時間前 · 編集済み ·
 ミンダナオ子ども図書館を始めた直接的なきっかけは、当時滞在していたキダパワンの司教館から、一時間半ほど西へいったイスラム地域、ピキットで大量の戦争避難民を見せつけられたからだった。
 2000年のとうじ、この地域では、フィリピン軍とアメリカ軍とによる合同演習(現地ではバリカタンとよばれている)がおこなわれていた。
 バリエス司教に案内されて、はじめてピキットの避難民キャンプをおとずれた時には、ミンダナオに足をふみ入れるようになってから一年ほどたっていたのだが、ぼくは合同演習のことすら知らなかった。
ミンダナオの子どもたちの事や、自然のなかで素朴な生活をしている、漁民や先住民の暮らしには関心をもっていたものの、社会情勢には関心がなかった。
 「合同演習」という言葉をきいても、日本にいたころに想像していたのは、住民や市民に影響をおよぼさない、海や空や特定の陸といった地域で、模擬的にドンパチやるていどの事だとおもっていたのだが・・・とんでもない!
 当時、ミンダナオで起こっていたことは、「演習とは名ばかりの、実戦!」だったのだ。
 迷彩服すがたの軍人たちが、鉄砲を胸にだいて、濃緑の軍用車にすしづめになって国道をひた走り、ピキットの町の広場にあつまると、そこをきょてんにして、湿原や山岳地帯にのりこんでいく。
 戦車が何台も、地煙たてて農道を突進していく。
 遠くからは、砲撃音がドーン!ドドーーン!、森のおくからは、機関銃の音が、バラバラバラっと聞こえてくる。
 当時、湿地帯や山岳地帯、時には都市近郊から国道沿いに、命がけで避難してきた避難民の数は100万人。
 空爆や夜襲のときなど、逃げおくれた家族の死体を埋めるひまもなく河に流したという。
 現地は、国道ぞいならともかく、一歩ふみこむと国際機関や停戦監視団でも容易にはいれない、高度な危険地域だったのだ。
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